すだまの足跡

技術と社会を考えたい理系大学院生が残したいつかの足跡。

コンピュータとしての人間、そしてDataism

コペルニクスに始まり、ニュートンによって完成される中世ヨーロッパの科学革命を経て、人間の自然観はアリストテレス以来の有機体的自然観から、機械的自然観へと大きく変容しました。機械的自然観の立場に立てば、あらゆる物質は古典力学的が記述する冷徹な因果関係に従って刻一刻と変化しており、世の中のあらゆる現象は、そういった機械仕掛けの舞台劇として理解されます。

 

実はこうした考え方の源流の一つに、中世に発明された機械時計の存在があったとする説があります。中世ヨーロッパでは宗教行事の作法が厳格に定められており、祈祷時間帯も正確に決められ、非常に規則正しい生活が送られていました。こうした生活様式にとって時計が不可欠な存在だったことは想像に難くありませんが、少し発想を飛躍させ、この状況が機械的自然観の下地を作ったとしても不自然ではありません。

 

このように考えると、ある時代に重要な役割を果たす技術が、その時代の人々の世界観に大きな影響を与えるのではないかという発想が生まれます。例えば、第一次産業革命後の人々は、生命のメカニズムを蒸気機関的に解釈していたかもしれません。「VRの父」と呼ばれるジャロン・ラニアーの『人間はガジェットではない』の中の記述によれば、アラン・チューリングがゲイ治療と称して女性ホルモンを大量に投与された背景には、性的な圧力を蒸気圧のメタファーから理解していた当時の人々の考え方があったと言います。

 

では翻って現在、私たちが世界や生命を理解するのに用いられているメタファーは何でしょうか。これはおそらくコンピュータです。人間の脳を機械的なコンピュータに例える発想は、おそらくコンピュータが誕生した時期から長らく続いてきたものですが、最近この思想は新たな局面を迎えているように思えます。その契機は言わずもがな、ビッグデータの活用や人工知能と言った技術の誕生でしょう。

 

AI悲観論者のニック・ボストロムは、『スーパーインテリジェンス 超絶AIと人類の命運』の中で、超知性が現れ得るシナリオの一つとして、強力なコンピュータを用いて脳を丸ごとシミュレーションするケースを挙げました。こうした発想は、明らかに有機的な脳活動はコンピュータ的な演算処理と等価であるという仮定をおいています。脳を構成する化学的な物質や、情報処理の物理的なメカニズムは抽象化の過程で捨て去ることができ、全ては論理的な演算過程として再現することができるとするのです。

 

こうした考え方の一つの極点を、Dataismというイデオロギーに見ることができます。これは世の中のあらゆる現象の本質を、「情報処理」に求めようとする考え方で、もともとはアメリカのコラムニストであるデイヴィッド ブルックスによって提起され、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』でさらに拡張されました。

 

ハラリによれば、「データイズムは、宇宙がデータの流れから成り立っていると主張する。そして、全ての現象の価値は、そのデータ処理能力によって決定され」ます。まさに、人間だけではなくこの宇宙全体を巨大なコンピュータとして捉えるような考えです。宇宙を「データの流れ」から解釈しようとするのは、世界をエントロピー増加へと向かう過程と捉える物理学の考えに近いような気もします。

 

『ホモ・デウス』においてハラリは、人間が機械よりも効率的にデータを処理できなくなれば、人間のこれまで保持してきた優位性は失われることになると論じます。こうした主張は人類に対する一種の警告のように響きます。しかし一方で、歴史上の例を思い出せば、世界の本質はデータ処理だとする考え方はいずれ、昔の人が世界を巨大な蒸気機関に喩えることと同じような、滑稽なものと判明するかもしれないな、とも感じます。しかしどちらにせよ、こうした現代的な世界の見方が生まれてくるのは、たまらなく面白いことだと思っています。