すだまの足跡

理系大学院生が徒然なるままに書きます。読書、旅行、研究生活など。

自律的ことばの逆襲

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 先日、頭木弘樹著『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』を読んでいて、「言語隠蔽」という言葉に出会い、これが気になったので少し書きとめたいと思います。

 

まず、カフカが日記の中でそれについて示唆した部分を以下に孫引きします。

 

このところ、ぼくは自分についてあまり書きとめていない。

多くのことを書かずにきた。

それは怠惰のせいでもある。

 

しかしまた、心配のためでもある。

自己認識を損ないはしないかという心配だ。

(中略)

書かれたものは、その自律性によって、

また、かたちとなったものの圧倒的な力によって、

ただのありふれた感情に取って代わってしまう。

そのさい、本当の感情は消え失せ、

書かれたものが無価値だとわかっても、すでに手遅れなのだ。

カフカの日記より、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』p73)

 

カフカは書かれたものには「自律性」があり、その「圧倒的な力」によって自身の「本当の感情は消え失せ」てしまうと書いており、上記の本の著者である頭木さんはこれと言語隠蔽という概念を結び付けます。

 

人は物事を言語で記述することで、その理解を深めることができる、というのが一般的な感覚ではないでしょうか。しかし、関連する論文のタイトルに "Some Things Are Better Left Unsaid" とあるように、言葉にすることで失われてしまうものがある、というのが「言語隠蔽(Verbal Overshadowing)」という概念の主張するところです。

  

このブログの目的の一つはまさに自身の考えや認識を言語化することにあるのですが、カフカにそう言われると、果たしてその試みは正しかったのかという話になります。何かを得るために書く文章を通して、むしろ自分は失っているのではないか?

 

言語隠蔽に関する科学的な実験の一つを紹介しましょう。そこでは被験者はある人物の顔に関するビデオを見せられます。その後実験群の人々は、記憶した容貌を言葉で叙述するように求められます。すると、言葉による記述をしなかった対照群と比較し、実験群はビデオの記憶テストにおいて点数が低くなったということです。

 

また、同様の例はさらに多岐に渡るようです。再び本からの受け売りになりますが、例えば恋人のどこが好きなのかを言葉で説明すると、半年後に分かれる可能性が非常に高くなったり、またゴルファーに自分のショットについて言葉で説明してもらうと、その後の成績がガタ落ちになるなどの現象が確認されているようです。

 

 これはどういう事なのでしょう。僕は心理学の専門家ではないので、wikipediaで聞きかじった知識しか持ちえないのですが、どうやら万人の了承を得るような結論は出ていないようです。現在の仮説としては、

 

言語化することで記憶自体が変質してしまうというRecoding interference hypothesis

言語化によって記憶の処理系が不適切なものにスイッチするというTransfer inaapropriate retrieval hypothesis

 

などあるようです。

 

カフカのように言葉の自律性が自身に影響を及ぼすと考えるならば、前者の立場に立つことになりそうですが、いずれにしても、言語を使用することそれ自体によって、私たちの脳や認識は影響を受けてしまうということです。

 

まさにエッシャーの「描く手」のような構造です。私たちは描くその瞬間に、逆に描かれ返されているのです。

 

メディア論で有名なマクルーハンの思想についての言葉の中にも、このような相互性をよく表しているものがあります。

 

最初に私たちは道具を作る。次に、道具が私たちを形づくる。

 

 「道具」を「文章」に変換すれば、言語隠蔽と似たような状況になります。さらに一般的に「言語」とすれば、使用言語が認知や思考に影響するという「言語的相対論」に至ります。

 

ニーチェの深淵うんぬんの言葉に通じるものもあるでしょう。多分(適当)。

 

つまり、言語隠蔽という現象は、「私たちが作り出したツール・プラットフォームは、それ自身の自律性によって、私たちを逆に作り変え始める」というより一般的な文脈からも捉えられるような印象を持ちます。

 

すると、その上で「非言語的な把握と言語的な(つまり言語の影響を受けた)把握はどちらが優れているか」という問いを考えることにどれだけの意味があるのか疑わしく思えてきます。性質の変化は必ずしも一次元的な優劣に並べられるものではないですし、言語的な把握が必要とされる場面も数多くあるでしょう。

 

あくまでそういった面を念頭に置いて記述すべきところは記述し、同時に言語化しない領域も確保する。両者のハイブリッド的方法の中に、現実的な処方箋が存在するというのが直感的な印象です。

 

どうやら物を書くというのは思ったよりも単純なことではないようです。

 

もっとも一番大事なのは、カフカみたいな絶望名人の言葉をあまり真に受けないことかもしれないけれど。

研究フロー再考

先日僕の研究分野の若手の会夏の学校に参加してきました。

集中講義形式で行われ、基本は先生の講義を一日中受けるようなスケジュールでしたが、ポスター発表の時間もあり、他大学の学生と議論することができました。自分と近い分野からも多くの学生が参加していて、普段は得られない刺激をたくさんもらいました。

 

と同時に、自分の研究の進め方にある種の危機感を感じました。前々から薄々感づいていたのですがこの機会に少しメモ。

 

 

 研究に限らず問題解決の際の一般論として、以下の段階に沿って進めていくのが理想だと思います。

 

①問題を明確に設定する

②その問題を解決するための手段を考える

③実際に行動する

④結果を分析して、必要に応じて手段を修正する

 

これを研究に当てはめるとどうなるか。

①では、自分の研究分野の今の状況はどうか、何が調べられていないのか、それを研究することにどんな意義があるのか、そういう土台をまず明らかにします。私見ですが、ここが一番重要です。

もちろん "Research is what I'm doing when I don't know what I'm doing" と言う人もいらっしゃるわけで、そういう哲学に染まることができれば幸せだとも思いますが、実際のところ、「どういう研究をしているのですか?」と聞かれて「俺も知らん」と答えてしまうと、初手から碁盤をひっくり返すような身も蓋もなさを感じたりするわけです。

 

というのは話がやや逸れました。さて、①で設定した目的に対し、②では、それを達成する実験方法を考えます。あくまで目的が先に立つべきであって、実験手法は手法に過ぎないという事です。

 

ここまでくれば後は単純で(というと各方面から怒られそうですが)、③実験を行って、④結果を解析します。解析結果が目的を見事達成していれば万歳、あるいは達成していなければ②に立ち戻り、手法の改善を検討するということになります。

 

理想論ですが、このループがまわることで進んでいくのが研究だ、というのが個人的な妄想です。

 

 

僕の場合は少々ミスりました。まず研究室に配属されて、とにかく研究を始めたかった僕は、スタッフに頼みこんでさっそく実験を始めました。しかし特に「あれこれを調べたい!」とかいう目的があったわけでなく、「とりあえず始めてみれば分かるだろう」的なノリでしたが、結果的に上でいうところのステップ①を華麗に飛ばしていました。

 

まあそういう特定の興味が無くても、実験室には既存の装置がたくさんあり、教授から何となく言い渡された研究対象の分子も念頭にあったため、何かしらすることはできました。というわけで、スタッフの方に提案されるがままに実験を行った結果、夏ごろにはある程度の実験結果が出始めていました。

 

結果が出たので解析を進めました。ところが僕はそもそも何か問題意識があって実験を始めたわけではなかったので、解析自体も散漫にならざるを得ず、逆に得られた結果から何か面白いことが見つからないか、虱潰しに探し回る羽目になりました。結果に対する意義なども大体後付けで、自信をもって言える類のものではありませんでした。

 

その後、 一応のところ卒業研究としてまとめられるところまで行ったのは良いのですが、そこから先の構想が途絶えました。ここで、現在地との参照とするべき研究目標が無かったのが致命的で、その後どちらに行けばいいのか分からず、今の研究にマイナーチェンジを加えることくらいしか思いつきませんでした。

 

つまり、僕は本来

①→②→③→④(→②→③→・・・)

と回すべき サイクルを

②→③→④→①(→×)

 と倒置してしまった格好になります。

 

もし研究を始める最初期の段階から①自分の研究の意義と目標を明らかにすることができていれば、それに応じて研究手法を改善していくフィードバックループを回せたはずです。ところが、研究過程が逆転してしまうと、結果が出てもその評価の基準とすべき参照点が無く、ちょっと面白そうな事実を摘まみとってそこでデッドエンドで、発展性がありません。

 

そんなわけで僕はこの数か月、研究に関して行き止まりにぶち当たった状態で、これが研究への情熱を失ってしまった原因(の一つ)だというのが、今感じているところです。

 

一番の問題点は、自分の頭で考えて研究をしてこなかったことでしょうか。今まで何となくで過ごしてきてしまいましたが、ここでもう一度研究のやり方を考える必要があるでしょう。夏の学校に来ていた先生方の一人から、「院生時代に自分自身の研究をしようと思った時、最初の数か月間は図書館にこもって論文を読み漁っていた」という話を聞きました。そのくらいすれば、分野の中で自分の進むべき方向が見えるようになるかもしれません。あとはやる気ぃ・・・ですかねぇ・・・。

 

千里の道も一歩から、まあ気楽に踏みしめます。

とある戦争に関する手記

現在私の生きる世界では、二つの王朝の間で激しい戦争が勃発しています。

 

王朝が二つもあるなんて変なものです。両王朝ともに、お互いを排除しようと躍起になっています。

 

片方はダデアル朝と名乗っています。休日もスーツを着ているような堅苦しい連中です。いつも皺のよった息の詰まる渋面を顔に張り付けていますが、たまに見せる独特のユーモアセンスが人民の間で好評を博しています。

 

もう片方はデスマス朝を名乗ります。物腰柔らか、懇切丁寧な治世で、人民からの評価はダデアル朝に負けていません。何でも要領よくこなすジェネラリスト集団ですが、保守的な傾向が強く、斬新な試みに対しては無言の圧力をかけてきます。

 

まあお互い仲良くしましょうよ、というのが私の意見なのですが、私の生きる世界の基本原理がそれを良しとしないようなので、今日も争いは続きます。

 

現在各地で局所的な衝突が発生しているようです。今のところデスマス朝が優勢であると今朝の新聞は報じていましたが、状況は刻一刻と変化しており、影響を直接受ける我々人民としてはたまったものではない。

 

ってほら、どうやら戦況が変化したようだ。せめてひと仕事終わるまで待っていて欲しいのだが、向こうはそんな些細な事柄に構っていられないようである。

 

まったく、いつまでもこんな調子では記事の投稿もままならない。一個前の記事に関しては、執筆半ばで突然主導権を取り戻したデスマス朝の役人に検閲され、と思ったらダデアル朝の役人がまたぬっと背後から現れ、何度も書きなおす羽目になりました。

 

戦局が安定するまでは、文章がふらふらするかもしれませんが、これから安定した書き方を見つけていきたいと思う。

ブログタイトルについて

半ば直感的に決めたブログのタイトルですが、その由来についてちょっと書いてみます。

 

「魑魅の足跡」。魑魅(すだま)と読みます(追記: やっぱり読みにくいので「すだまの足跡」に変えました)。魑魅魍魎という言葉がありますが、魑魅(すだま・ちみ)は「山の怪物」、魍魎(もうりょう・みずは)は「川の怪物」を意味し、中国や日本の古代の文献に登場するようです。wikipediaで見つけた図を以下に貼ります。

 

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『百鬼夜講化物語』より、向かって右が魑魅、左が魍魎とのこと。

 

って、ええ、こんな見た目してたのか。自分で驚く。山の中でこんなのとばったり出会ったらその場でショック死しそうで、ブログのタイトル中に鎮座させるにはちょっとグロテスクすぎやしないかと今更不安になってきました。一見分かりずらいですが、魑魅に寄り掛かる魍魎の姿も確認できます。うんやっぱり気持ち悪い。

 

なぜこんなイカツイ化け物をタイトルとしてしまったのかというと、これはジョージ・R・R・マーティンのSF短編、「夜明けとともに霧は沈み」に思い浮かべていたからです。

 

その舞台は〈魑魅の栖〉(すだまのすみか)と呼ばれる星で、常に星を覆う霧の海の下に幻想的な自然を隠しています。この霧の中に魑魅と呼ばれる怪物が生息しているという伝説が星には存在し、旅行客は自分がその伝説の一部となることを夢見て星を訪れるます。人々は霧の中へ冒険へ出かけますが、魑魅は複数の目撃証言から間接的に確認される存在に過ぎませんでした。

 

物語の登場人物は、魑魅に魅せられて星にホテルを建設し運営するサンダースと、魑魅を徹底的に解明しようとして星に上陸した科学者デュボウスキー、そしてその両者の間で中立的立場をとるジャーナリストの「わたし」の三人です。魑魅伝説を愛し、謎は謎のままにしておこうとするサンダースと、人々に真実を知らせ伝説や迷信から解放しようとするデュボウスキーとの間の対立を軸に話は進みます。

 

話の主題は「科学によるロマンの破壊」、「事実を事実として記述することの暴力」ということになりますが、それはちょっと脇へ置いておくとして、この話を大学1年か2年あたりで読んだ僕にとって魑魅は、断片的な情報から浮かび上がる未知の存在の象徴であり、僕が日頃頭にふと浮かんだ考えの痕跡をブログに書き残して、何とか構築したいと考えているものの恰好のメタファーのように思いました。

 

このブログは霧に覆われたようにボケっとしている自分の頭の中に時折発見される魑魅の痕跡を記しておき、というかむしろ自分から霧の中に探検に出かけ、自分流の魑魅伝説を作り上げるために運営されています。

 

なので「魑魅の足跡」です。というとやや内省的な感じになりますが、ブログなので他人が読んでも面白い文章を心がけていきたいと思ってます。どうぞよろしくお願いします(ペコリ)。

 

 

Meetupに参戦

皆さん、悩みはありますか?僕にはあります。例えば最近研究に対するかつての情熱を失いかけており、当然というか、進捗がない。転出やらなんやらで居室には人が少なくなり、そして誰もいなくなったりするんじゃないかという様子で精神が荒むし、これはいかん、「そうだ、社会 出よう。」と思い立って申し込んだインターンには選考で落ちまくるし、一体僕の人生これからどうなっちゃうのだ、おしえてアルムのもみの木よ。

 

・・・は!

しまったダークサイドが少々漏れてしまった。違う違う、そういうことを言いたかったんじゃなく、冒頭で言いたかった悩みは例えばこうである。

 

英語を喋る機会がない。

 

これは最近少し困っていて、思い返してみれば学部時代の方がよほど機会に恵まれていた。留学生と日常的に会話していたし、授業中に英語で発表する機会もかなりあったから、特に意識しなくても多少の英語力は維持できていたと思う。これが大学院に進学して研究室にこもるようになってから、英語を使う機会がかなり減ってしまった。だって日本語通じるし。

 

体感としては英会話能力というのは某フレンドパークのフラッシュザウルスのポンプ役みたいなものであり(たぶん僕には比喩の才能がない)、継続的に使わないとどんどん衰えていく。何とかしたい。

 

そこで先日試しに、Meetupというアプリを使って国際交流のイベントに参加してきた。Meetupとは共通の趣味を持つ人たちのコミュニティを簡単に運営することができるプラットフォームサービスで、プログラミングで言うところのconnpassに近い。出会い系ではない。

 

本来は国際交流を意図したサービスではないが、ユーザーに外国人が多いので、日本で使うと必然的に国際色が強くなる。僕はアメリカ短期留学の際に現地のポスドクさんに教えてもらい、日本人コミュニティ探しに活用していた。

 

国際交流で何をするのかというと、まあ多様な国々の人々が集まってご飯を食べたり、議論したり、遊びに出かけたりする。僕が参加したのは、みんなでお台場の花火を見に行こうという企画だった。80人近く集まる大きなグループである。

 

ひとまず集合時間に浜松町駅に向かうと、外国人濃度の高い集団が改札前にいるのですぐに分かった。日本人と外国人の比率は1:1程度とどこかに書いてあったが、見た感じ日本人は少なく、実際の比率は3:1といったところだと感じた。ここにきて若干気後れしそうになるが、頑張って近くの集団に混ざって会話をする。

 

すると、僕が日本人だということを見て取ったのか、相手が日本語で話しかけてきてくれた。え、ああ、こんにちは、はじめまして。

 

そうか、そりゃ海外から来た人だって、日本に何年も住んでいれば日本語も堪能になる道理である。ほぼ英語オンリーの環境に飛び込もうと思っていたので少し面食らったが、向こうはITエンジニアとして日本に数年滞在している人たちだった。いい人たちでした。

 

そのまま適当に周りの人と喋りながら船に乗ってお台場に上陸し、花火の見物場所を確保する。船上ですでにビール缶を手に持っている人もちらほら。公共の場所で気兼ねなく飲めるのは、海外からきた人にとっては嬉しいのだろう。

 

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到着後はかなり時間が余ったので、近くのパレットタウンまで散歩しに行った。タウン内をうろうろし、観覧車にも乗った。人生で二回目の観覧車。あと英語も頑張って話した。当初の目的はまだ脳内に残存している。

 

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その後、少々時間をつぶしすぎたので早足で元の場所に戻って花火を見物した。僕はお台場の花火を初めて見たのだが、空に広がった球が片側から徐々に消えていくように見えるものや、時間差で明るくなる花火など、見ていて楽しい花火が多くて歓声があちこちで上がっていた。

 

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という訳で、英語力を鍛えるために参戦した今回のイベントだったが、割と日本語話者が多く、そこで固まってしまいがちなのと、英語がいまいち出てこない状態でネイティブたちのノリについていくのはちょっとしんどかったので、言語に焦点をあてるならば、より言語交換を中心に掲げた集まりに参加するのがよいかもしれない。

 

しかしもちろん、英語を話すチャンスはその気になればいくらでもあるし、なにより、少し手を伸ばせばこんな交流の場があるんだと知ることができたのが良かった。集まっていた人たちも、中国、韓国、マレーシア、インド、ノルウェイアメリカ、オーストラリア・・・など、様々なバックグラウンドを持っていて、知らない文化を知る良い機会だ。それに何かと悩むことが多いこの頃、新しく出会う人たちと会話することは、いいリフレッシュになった。また参加したい。

 

 

物忘れ

記憶力がない。

 

人の構成分子は一定周期で入れ替わるというが、それと一緒に記憶も捨て去られているのではないかと疑う勢いだ。「非使用のAppを取り除く」機能をオンにしたiPhoneに似て、奴はぼくが眼を放している隙に地図からLINEからどんどん削除していくから恐ろしく、ぼくの長期記憶の欠如もまた恐ろしい。そう設定した覚えはないが、我が脳は少し使わない知識があるだけで「こいつはいらない」と即断し、葬るようになったらしい。後で必要となって困り、小言の一つ言いたくなるが、自分の脳に文句を言ってもしようがない気もする。

 

インターネットに情報があふれるこの時代、「歩く辞書」タイプの賢さは影を薄め、忘却の価値を再評価する声もあったりするが、そうはいってもやはり、自身の中にある程度情報をため込んでいないとそれを調理することすらままならず、人間とインターネットはまだ直接接続されておらず、また過度な忘却は、自分の生きる時間幅を狭めることにもつながるし、なによりまず不便だ。本など読んでいても、頑張って読破した数か月後にほとんど内容が残っていなければ、何のために読んでいるのかと言われて首をひねるより他ない。失われていくものたちへの受け皿が欲しい。

 

そこで、文章を書く練習がてら日々考えたことを書き留めてバックアップとし、後からその軌跡を眺められるようにする目的でブログを作ってみた。書くことで、何か形になるものがあると思うのだが、はたしてどうか。