すだまの足跡

技術と社会を考えたい理系大学院生が残したいつかの足跡。

「博士」活かせぬ日本企業 雑感

r.nikkei.com

 

タイトルの通り「「博士」活かせぬ日本企業」という記事が話題になっていたので、日本の博士問題に関する自分なりの意見を書き記してみます。

 

記事によれば、日本における博士号取得者はここ10年で16%減少したとのことです。博士号を取得した後の選択肢が限られているという事実は大きな要因の一つでしょう。日本の場合、1990年代に始まった「大学院重点政策」によって博士号取得者は急激に増加しましたが、その活用先は増加しなかったという構造的な問題が背後にあります。仕方なくポスドクという任期付き研究員の職を作ったところ、今度はいつまでも正規雇用職にありつけない「ポスドク問題」が深刻となっています。

 

こうした博士量産の弊害は何も日本に限った話ではなく、多くの先進国で問題となっているものです。アカデミアにおける職は大まかに言ってどこも減少傾向にありますから、博士号取得者が民間企業でキャリアを歩めるようにすることが重要です。ところが、米国などと比較して、日本においては民間企業における博士号取得者の割合が低いという特徴があります。

 

なぜでしょうか。こういう場面であまり話題に上がらないのが不思議なのですが、そもそも同じ「博士号」と言えど、その内実は国によって大きく異なるものだという事を考慮すべきだと思います。例えば、日本では修士課程(2年間)と博士課程(3年間)が明確に分かれていますが、米国では基礎科学系の大学院は5~7年を要する博士課程しか設けていない場合がほとんどです。米国において(特に理学系での)修士号とは、この博士課程の途中でドロップアウトした者に与えられる学位を意味します。したがって、ほとんどの学生は博士号を目指して努力するそうです。

 

修士課程の中身も、米国と日本ではかなり異なります。米国の修士課程は実質、博士課程の最初の1~2年に相当しますが、日本と比べて必修科目が多く、その期間のほとんどを授業とその宿題に費やします。大学院によると思いますが、ここでまずい成績を取ると博士過程を去る必要さえ出てきます。一方で、日本の修士課程は必修単位の分量はそれほどでもなく、研究がメインです。専攻によっては、学部から研究を始めるところも多いです。以上のことから、日本においては米国と比較して、修士号の価値が高く、また修士卒業時点での研究経験も長いのだと考えられます。

 

もちろん博士課程に進んで3年間自らの研究に打ち込んだ方には大きな尊敬を覚えますし、修士卒にはない迫力も感じます。「自分自身で」考えた研究テーマに立ち向かい、誰も到達した事の無い暗闇の中から新たな知識の灯を探し出す経験は、博士課程を卒業した人のみが得られるものです。一方で、就職の問題を考える際は、企業のニーズがどのレベルにあるのか、という視点からの相対位置で物事を考える必要が出てきます。今までの日本企業の伝統的な採用状況を考えると、一部の企業にとって、修士卒の能力が十分だと見えてしまっている可能性が否定できません。

 

新卒一括採用や年功序列制といった、伝統的日本企業のやり方も博士制度とあまり相性が良くありません。「配属リスク」という言葉があるほど、日本企業は入社後の配属先を明確にしないまま採用をする事が珍しくありません。一方で、海外では採用時に企業がJob Descriptionという形で具体的な業務内容を提示することが多いと聞きます。博士号取得者のような専門的な人材にとっては、後者のやり方が望ましいのは言うまでもないでしょう。また、博士課程は卒業時には27才前後となるのが一般的なので、年功序列の歯車にも上手くはまらない側面があります。

 

こういった構造的問題が、博士号取得者の民間企業採用が進まない要因にあるのではないかと感じています。しかし博士号は研究の世界で生きるためのパスポートみたいなものですから、博士課程が敬遠されるのは科学技術立国を目指す国としては深刻な問題です。日本社会の多様な場所で博士号取得の経験が活きるような場を作っていく事は喫緊の課題であることは疑いようがありません。

 

例えば最近では日本でも、新卒一括採用を廃止する動きが出てきました。こうした取り組みが進めば、日本において人材の流動性が高まり、博士号取得者の就職に追い風がふくかもしれません。また、博士課程在籍者に対して、高額な給与を与える例も出てきました(情報系ですが)。こうした例から、博士課程の価値が社会的に認知されていけば良いな、と思っています。