すだまの足跡

技術と社会を考えたい理系大学院生が残したいつかの足跡。

基礎研究の価値

「基礎研究が大事」だという事は、基礎科学に携わる研究者にとってはことさら証明する必要のない真実であるかのように語られます。例えば日本のノーベル賞受賞者は、口を揃えて基礎研究の重要性を強調します。2016年にノーベル医学生理学賞を受賞した大隈栄誉教授は、「”役に立つ”ということは、とても社会をダメにしている。”役に立つ”=数年後に企業化できることと同義語みたいに使われる。本当に役に立つこととは、10年後、20年後、100年後にならないとわからない。将来を見据えて、科学を一つの文化としてとらえてほしい」と訴えました(東洋経済「日本人の「ノーベル賞」受賞者が激減する日」より)。

 

類似する多くの主張の根底にあるのは、次のような考え方だと推察します。すなわち、技術開発等の応用研究は結果が見えやすい一方で、基礎研究はすぐに成果の実を結ぶとは限りません。しかし、基礎研究がこれまで実現してきた技術革新を鑑みれば、実は長期的な視点に立った時に最も重要になるのは、基礎研究に他ならないというわけです。半導体原子力発電、遺伝子編集技術など、実際こうした例には枚挙にいとまがありません。

 

しかし一方で、こういった考え方を純粋なモチベーションとして基礎科学に従事している研究者も、あまり多くないのではないかと考えています。基礎科学に魅せられた研究者は、応用にほとんど興味の無い人が多い。明らかに彼らを突き動かしているのは、10年後100年後に実現するかもしれない技術革新への期待ではなく、自然に内在する深淵な真理への探求心であり、どちらかと言えば古代ギリシャ以来の「自然哲学」から思想を受け継ぐものだと言えるでしょう。極端な話、そういう研究者にとって、上述の「いずれ大きく役に立つ」論法は、一般世間を納得させるための方便に過ぎません。

 

実は、こうした社会からの隔離こそが、科学を前進させる駆動力であるとする向きもあります。かの有名なトマス・クーンによれば、科学者集団は社会と価値観を共有しない(=すぐに役に立つことを求めない)からこそ、自然のある側面をこれまでに無いほど詳細に調べる事が可能になり、そしてそういった研究を通して科学は最も効率よく発展する事ができるといいます。社会課題を解決するためだけに科学を行うのだとすれば、粒子加速器重力波望遠鏡も必要ないのです。

 

しかし今の時代、科学のパトロンは金持ち貴族ではなく一般国民であるため、「役に立つ科学」という国民の期待を真っ向から無視するわけにもいきません。なぜ基礎研究をやるのか、そのよく分からない活動のために膨大な税金を投入する妥当性が一体どこにあるのか、そこをはっきりさせる説明責任が、科学者に当然のこととして課せられます。そういった疑問に対して、「だって面白いから」と答えるのでは納得が得られないでしょう。

 

そもそも「基礎研究」と「応用研究」という区別は、そういった事情から生まれたものだとも言えます。技術開発の流れを、「基礎研究」から種が育って、やがて「応用研究」へと繋がり、最後に企業の「開発研究」へと手渡された結果、社会に役立つ技術が誕生するという、一直線のプロセスとして仮定する、戦後に広まったリニアモデルの考え方が、これらの用語の源流となっています。「それならば、一番上流にある「基礎研究」に投資すれば、のちのち多くの技術が花開くだろう」。人々がそう考える事を暗に誘導するような考え方です。特に冷戦時代の米国などでは、国防の大義名分もあり、大学においても企業においても基礎研究に莫大な資金が投入されることとなりました。

 

日本だって昔は基礎研究が盛んに行われる環境があったはずです。日本のお家芸とも言える素粒子物理学は、将来的な応用から最も縁遠い世界の一つだと言っても大過ありません。しかし時は流れて現在、ノーベル賞受賞級の研究者がいくら「基礎研究が大事」、「長期的に見れば大きな成果に繋がる」と訴えても、どこか虚ろな響きを感じてしまうのが実際のところではないでしょうか。

 

リニアモデルは既に終焉を迎えています。JSTのハンドブックを参照すると、リニアモデルの終焉は、1999年の世界科学者会議によるブダペスト宣言において明瞭に表れているといいます。「この背後には、企業に於ける「リニアモデル」に基づく基礎研究が商業的な価値を生み出さなかったという反省に加えて、現代に於ける基礎研究には莫大なお金が掛かるという事も併せて考えておく必要がある。(中略)政府といえども研究開発への財政的支援を純粋な研究支援ではなく「研究投資」と考えなければならなくなった。これに呼応して、研究者の側では使った研究費に対する社会への「リターン」を考えなければならないことである。」

 

こうした世の中の流れの中で、基礎研究が政府から手厚い支援を受けることの(科学者ではなく国の立場から見た)妥当性は、通説に反していまや全く自明で無いのではないかと感じています。そしてこの点に対して、いまだ受け身的な姿勢なままの研究者が、日本において少なくないように見えます。世の中の煩わしい些事に惑わされず、純粋な理論の世界へ隠遁できる基礎研究は、研究者たちの理想郷でしたし、そこでは洗練された科学的進歩が日々繰り返されていました。しかしユートピアは永続しないと相場は決まっています。もし基礎科学の可能性を信じ、「役に立たない」研究に対する支援を得ようとするのであれば、古い理想に固執するのではなく、如何に現代の社会と共存するのかを、より一層真剣に考えるべきだと思っています。