すだまの足跡

技術と社会を考えたい理系大学院生が残したいつかの足跡。

科学的懐疑主義が機能するとき、しないとき

科学教育は、物事を自分で考える力を養うといいます。悪く言えば、懐疑的になる。多くの科学者は人の主張を読んだり聞いたりする際、まずは疑ってかかり、どこかに誤った点が無いかを精査します。そういった同業者の厳しい批判の目にさらされて生き残った研究結果のみが、科学の最先端の成果として付け加えられていくのです。科学の品質はまさにこうしたメカニズムで保たれるわけですが、さてここで、この懐疑的姿勢は本当にいつでも効果的なのだろうか、と逆に疑ってみます。

 

こうしたやり方が最も有効なのは、次の条件が満たされている場合だと考えています。つまり、(i) 何が正しくて何が間違っているのかを決める広く合意された手続きが存在し、 かつ (ii) 問題を考える時間が十分に与えられている場合です。そして、こうした条件が成立する理想的なケースは、科学の外の世界ではあまり多くありません。

 

個人的にこれは就活をしていた時期に強く感じたのですが(グループディスカッションに厳密性を求める人が一体どこにいる?)、他には例えば、日本の四大公害事件に数えられる水俣病事件に印象的な例が見られます。熊本県に存在したチッソ水俣工場から海へ流れ出たメチル水銀化合物が原因となり、多くの犠牲者を出したことで知られる水俣事件ですが、科学的に原因がしっかりと解明されるまでに3年かかっています。そして、「科学的な証拠がない」状態が汚染者を救済する政策決定を遅らせるために利用されたため、対応が遅れる結果となりました。科学的な見解が固まる前から、チッソの排水が原因となっていることはある程度疑われていたため、その時点で対応を打っていれば被害の拡大を防ぐことができたはずでした。

 

論理の妥当さ、正確さをいちいち気にしていたら物事が進まないどころか、致命的な結果を招く世界というのは、そこら中に存在します。そういう世界に足を踏み入れるのであれば、ひとまず現時点での仮定が正しいとして、大胆にも前へ進むやり方を許容するような勇気も併せ持つのが大事なのだと思います(当たり前?)。