すだまの足跡

技術と社会を考えたい理系大学院生が残したいつかの足跡。

データイズムと科学との距離

昨日の投稿で、中世ヨーロッパにおける機械的自然観の誕生を起点とし、ユヴァル・ノア・ハラリのデータイズム思想まで話を広げてみました。しかし、物理学に深いルーツを持つ機械的自然観とデータイズムを同じ土俵で比較するのは、深刻な誤りとなる可能性があるように思えてきたので、ここで両者の違いを考えてみます。

 

自分が理解する限りで、両者の大きな違いは「反証可能性」の有無です。ここではカール・ポパーの議論を参照するのが有益です。ポパーは有意味な科学的命題と無意味な形而上学的命題を峻別しようとする試みの中で、「反証」という概念を提起しました。そして、「反証可能性」を持つことこそ科学理論の最大の特徴だとしています。

 

例えば、占星術による未来予測は反証ができません。例え予言が外れても、それは人間の行いが神を怒らせたからだとか何とか、いくらでも正当化が可能だからです。一方で、例えば「化学反応の前後では質量は変化しない」という命題は反証することが原理的に可能です。実際に測ってみれば白黒がはっきりするからです。

 

こうした区分に基づけば、機械的自然観は、少なくとも検証が可能な単純な系を考える場合においては反証が可能です。そのような系の時間発展を追ってみて、理論と突き合せることができるからです。一方で、データイズム、つまり「宇宙とはデータの流れからできている」という思想は、反証ができないように見えます。この考え方からは、反証可能な設定を作り出すことができないのです。

 

その意味で、データイズムを科学的なルーツを持つ自然観と等置させることは不適切だと考えられます。あくまでデータイズムは哲学的思想であって、例えば従来の機械論的自然観を塗り替えるような位置づけにあるわけではない、という点は強調するべきでした。