すだまの足跡

技術と社会を考えたい理系大学院生が残したいつかの足跡。

知と無知の功罪

日本は自己肯定感の低い国だとよく言われます。例えば、2014年に内閣府が行った調査によれば、「自分自身に満足している」若者の割合は、アメリカやヨーロッパ諸国が軒並み8割程度のスコアを出す一方で、日本は5割にも満たないといいます。かくいう筆者も、低い自己評価に悩まされる人間の一人です。そしておそらく、誰もが多かれ少なかれ似たような悩みを抱えているに違いありません。

 

もちろん己の無力さを知るのは大事なことです。ソクラテスの言う「無知の知」は、知らないことを自覚している者が、無自覚な者よりも優れていると説きます。心理学の概念にもこれをある意味支持するものがあります。ある分野における知識・経験が不足している人物は、自己を過大評価する傾向にあるというDunning-Kruger効果などがその例です。

 

こうした高貴な自己反省に浸り続けるのも素晴らしい生き方でしょう。しかし、その謙虚さがむしろ足枷になる場面も多く目につきます。例えば、私が会社の経営を始めたとします。

 

当たり前ですが、「我が社は世の中を大して良くしないかもしれません」と公言する会社は成長できません。株主の利益にもなりません。というのは極端ですが、会社の経営層はあくまで自身の行なっていることに対して肯定的であることが求められます。

 

となると、物事を深く考えようとすることは、経営者にとっての禁断の果実となり得ると思えてしまいます。例えばシリコンバレーなどに端を発するテクノロジー企業の発展が世の中に与える影響について、当の経営者達はどう考えるのか。

 

新しい技術は、これまで必要とされていた多くの職業を無用のものとします。歴史的に見るとそれら失われた職は、新たな職の誕生で賄われてきました。しかし、人間「のみ」が出来ると考えられていた領域への機械による浸食が進む今、果たして本当に過去の再演が起こるのかは不透明です。

 

市場構造の創造的破壊は、一方の人々にとってはただの暴力的破壊であり得ます。確かな結論を出すのは難しいと思いますが、テクノロジーの影響が貧富の格差を悪化させていると見る向きもあります。

 

あるいは、全ての人々が機械化によってもたらされた恩恵に浴し、ベーシックインカムで生活を送る世界が来るかもしれません。しかし富める者がそのような社会システムを作るインセンティブは今のところ見当たりません。

 

加速するテクノロジー至上主義が経済や社会、倫理や日常生活に与える未来の影響を断言することは不可能ですが、まさにそのために、無知であることを自覚することがあらゆる行動に対する抑止力となります。テクノロジーの普及を推進する立場にある企業は、そうした細々とした懸念に対し、意識的に無自覚であるが故に、その影響力を発揮する事ができるのだと思うのです。

 

これは決して企業に対する批判ではありませんし、現に私はテクノロジー好き人間です。こうした例を挙げて、ひとえに思うのは、世の中に影響を与える存在は、(自覚的にせよ無自覚的にせよ)多少の無知さと、それに伴う自己肯定的な推進力を利用しなければならないだろうという事です。そのバランスを誤れば、不可避的に悲観主義へと陥ってしまうでしょう。そして悲観主義者は、決して、未来の世の中を作っていく事ができないのです。