すだまの足跡

技術と社会を考えたい理系大学院生が残したいつかの足跡。

【本の新結合 #3】 論理は「わたし」を描けるか?

畑違いの2冊を取り上げてはまとめて紹介する「本の新結合」コーナーです。

前回から既に方向性がおかしくなってきた気がしますが、気にせずどんどんいきましょう。

 

ところで先日、「本の神様」こと井狩春夫さんの書評本を読んだのですが、本を語る際の井狩春夫スピリットは、

 

「長く続ける」

「本を論じない」

「無理せずになんとなくやる」

 

の3つなのだそうな。良い教訓ですねー。

 

特に2つ目について最近よく考えるのですが、ある分野において専門家として十分な業績をあげた人でなければ、特定の事柄を「論じよう」ったって無理なんですね(井狩さんの場合、論じようと思えば論ずることができたのだと思いますが)。少なくとも一般に向けて情報を発信する正当な資格はないわけです。

 

僕は専門家でも何でもない人間なので、そういう真剣な議論に入った瞬間、この企画は破綻してしまいます。

 

というわけで、やや曲解な気もしますが、本を真正面から論じることは避けながら、どちらかと言うと本に伴走してもらうような気持ちで、これからもこの企画を続けていきたいなと思うところです。

 

 

さてさて、今回は主観と客観に関する問題を少し考えていきます。

 

高校の頃、物理学の授業を受けていて、「ラプラスの悪魔」と呼ばれる概念を習いました。

一言で言うと、「ニュートンの力学が正しいとすれば、原理的に過去も未来も全てあらかじめ定まっている」という決定論的な世界観を指します。しかしこれは奇妙な帰結です。

なにがおかしいかと言うと、そこでは私たちの自由意志が介入する余地が無いんです。私たちが自分で選択したと考えている行動は、全て原子や分子レベルであらかじめ決定されていたことになってしまう。

 

これは古い例ですが、こうした事から何となく分かるように、物事を機械的な論理で理解しようとする立場で人の主観を扱おうとすると、なにやら困った事になります。

 

間接的にではありますが、そんな点を批判した本に、1年ちょっと前に出会いました。

その本がこちら。

 

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『人生論』

レフ・トルストイ (著)

 

アンナ・カレーニナ』で有名なトルストイパイセンです。

いやー表紙がイカツイ! 

 

ストレートなタイトルから分かる通り、人間は如何にして生きるべきかというマジメな問いに対して晩年のトルストイが到達した答えが、鋭く迫力ある語り口調で述べられている本です。本記事の主題とはあまり関係ないのですが、この本の一番の核心は、

 

「自身の幸福のみを追求する人間は不可避の苦しみへと落ち込んでいく。一切の利己心を捨て、他人の幸福を願う事によってはじめて、人間は自らの幸福をも手にすることができる。」

 

という主張で、自己愛の全面的な放棄を促すのが大きな特徴だと言えます。

 

これ、読んだ当時の僕は妙に腑に落ちまして、感動すら覚えながら、これからはできるだけ利他的に生きようと思ったものです。我ながら単純です。なお実践は全然できてません。

 

こういう事を経済学専攻の人に話すと、真っ先にゲーム理論を思い浮かべるようです。

囚人のジレンマ」が有名です。この場合、2人の囚人がお互いが協力しあう事がパレート最適、つまり全体の利益が最大となる状態なのですが、もし片方が意地悪で裏切った場合、正直者だけが不利益を被り、裏切り者の一人勝ちになってしまう。そのため、協力しあう選択が均衡点とならず、ジレンマと呼ばれるに至ります。

 

これこそ僕が論じられない話題なので深入りしませんが、こういった例から見ても、自己愛を捨て去る事は現実的には一筋縄ではいかなさそうですね。そう選択することで大きな損を被っても、誰も補償してくれないのですから。

 

さてと、本題に戻ります。本書を開いてまずびっくりするのは、トルストイが筋金入りの科学嫌いだという事です。人生だとか幸福だとかはさておき、この本は何よりもまず科学に対する強烈な批判から始まります。

 

なぜか。

最初に紹介した内容からも若干察せられる通り、トルストイに言わせれば人間とは、不幸から幸福へ向かおうとする指向以外の何物でもないのです。

それを傲慢な科学者たちは、分子やらタンパク質やらの玉突きゲームで全て説明した気分になっている。そんなものが生命の本質であるはずが無いのに、偏った解釈を一般化して押し付けおって、ふざけるな。

 

 と、こうなるわけです。

 

独断的なところもありますが、かなり痛いところをついている意見だと個人的に思います。公だって話せばやや怪しい香りがしますが、誰だってトルストイの、主観的体験をベースにした生命の定義にある程度共感するのではないでしょうか。今のところ科学の論理では、このような主観的概念を内包することはできません。

 

あるいは進化論的な見方をすると、当然の事を言っているに過ぎないのかもしれません。つまり、自らの不幸を願うような個体は長い年月の試練で淘汰されてしまうに違いないのです。

 

しかしそれでも、そういった機械的な現象として記述される性質と、私たちが曲がりなりにも生きている存在として「主観的に」感じる幸福追求の衝動との間には、どうも大きな壁があるように感じられませんか。

 

この感覚をどう説明したらよいものか。

いや、そんな大仕事は僕には無理なのですが、まずそのための第一歩として、参照できそうな文献が一つあります。

それが今回紹介する2冊目(?)です。

 

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”What is it like to be a bat?”

 Thomas Nagel, The Philosophical Review, 83, 4 (1974), pp. 435-450

 

おい、これは本じゃないだろう。

とツッコまれそうですが、そうです、すみません、許して!

 

日本語では「コウモリであるとはどのようなことか」。

アメリカの哲学者トマス・ネーゲルが1974年に発表した論文です。この論文の、しかも日本語のwikipedia記事があるくらいなので、かなり有名なのだと思います。


この論文の主題は、科学は主観的な性質を記述し得るのだろうか?というとても大きな疑問です。ここでは本論文の議論を軽く追ってみましょう。

 

さて、果たしてコウモリであるとはどういうことでしょうか。

 

鳥類によく似た羽で自由に飛び回る事ができそうです。人類の夢をかなえ放題です。

 

夜行性のコウモリは視力が退化しています。周囲を暗黒に包まれて心細そうです。

 

しかしその代わり、超音波を用いたエコロケーションで周囲を把握できます。人生で一度はやってみたい事の一つです。

 

と、想像してみましたが、これでは疑問に答えていません。

 

私は「”私が”コウモリのように振舞うとはどういうことか」と想像しているだけです。

これは「”コウモリが”コウモリであるとはどういうことか」という疑問とは決定的に異なります。

 

コウモリの主観的な性質を記述するには、文字通りコウモリに”なる”必要があります。

誰の視点なのか、という点を切り離しては決して論じることができないのです。

つまるところ、コウモリの視点の存在を抜きにした上で「はて、コウモリになるとは一体どういうことか…」と考えることに 果たしてどれだけの意味があるんじゃい、てなわけです。

 

そしてここで、私たちは大きな壁にぶち当たります。

科学とはそもそも、私たちの日常的な経験から出発しつつ、徐々に人間の恣意的な視点を取り除き、人間とは独立して正しいと保証される事実へと昇華していく過程だと言えます。

 

SF小説で宇宙人に自らの文明を知らせようとする際、よく素数列をひたすら送信し続けたりするのもその例でしょう。未知の生物がどれだけ人間とかけ離れた知的枠組みを持っていたとしても、まあ素数なら通じるやろ、と人は思うのです。

 

これまでほぼ全ての自然現象の記述は、そういったプロセスで上手く記述できていました。しかし、問題が生体の意識へと移った瞬間、同様のプロセスは機能しなくなるようです。

 

なぜならいまや、客観性への片道切符は私たちをむしろ答えから遠ざけてしまうからです。コウモリの視点という、コウモリの意識を考える際に不可欠な要素が剥ぎ取られてしまうという意味において。

 

だからと言って物理主義が間違っているわけではない、とネーゲルは言います。

むしろ私たちは、「精神的な現象は物理的な現象である」という考えの「である」の意味を理解するための枠組みをまだ確立していない、と言った方が良い。

アインシュタイン以前の人々にとって「質量はエネルギーである」の「である」の意味は理解できなかったであろう事と同様です。

 

 

というわけで、トルストイの信じる生命の本質と、科学による生命の解釈が和解できる日は、来るかもしれないにしても、そのためには大きな壁を乗り越える必要があり、まだまだ時間がかかりそうです。

 

最近では人工知能の流行りの延長線上で意識の問題が上がる事も増えましたね。

やれシンギュラリティが到来するだの、意識に目覚めたAIが人類に反逆するだの、本気なのか冗談なのか分からないような話も聞きますが、意識とは何で、主観とは何だろうか、という疑問がこれまでになく切迫したものになるかもしれません。

 

また、もう少し地に足の着いた関連で思い当たるのは、医薬品による精神状態の制御がありますね。

抗うつ剤の処方も今や当たり前の事になっていますが、例えば手軽な錠剤をのみ続けることで一生幸せな気分で過ごせたら、それってどういう事なんでしょうか(麻薬のような反動も無いとして)。それこそまさにSF作家グレッグ・イーガンが「しあわせの理由」で問うた主題だったような……

 

さあ困った。話の収集のつけ方が分からない。

多分こういう途方もなく大きくて複雑な問題に手を出してよいのは、一部の天才たちだけなんだろうなぁと思ったりします。

そして、あくまで科学的に健全であろうとするならば、意識と主観の問題には沈黙を保つのが現時点ではベストな方針なのでしょう。

 

でも、たまにはふと考えたくなりませんか?

枕もとで妄想するだけならタダですからね。

自分が自分であるとは、一体どのようなことなのか。

 

色々とまとまらず申し訳ないですが、ここらで今回は終わりにしたいと思います。ではまた!