【本の新結合#1】『イノベーションのジレンマ』×『科学革命の構造』
このブログで読書日記をやりたい、というの前々からの腹案だったのですが、どうも続く気が一切しない。どうせ三日坊主で終了するに違いない。セブンペイといい勝負である。
もっと続きそうな、面白いやり方はないかしらん。
という事で思いついたのがこちら、その名も「本の新結合」です。
読んで字のごとく、自分がこれまでの読んできた本の中から、「お互いにぜんっぜん関係ないけど、一緒にとりあげたら面白いのでは!?」という2冊を独断と偏見で選んで、一緒に紹介してしまおうという企画です。
割とヘビーな著作にも手を出してみたい所存ではありますが、そこまできちんとした考察をする気はあまりありません。というかできません。
なので、あくまで読書日記風のゆるさで、本同士の意外な共通点を楽しんでいければと思っています。
では早速いきましょう!
『イノベーションのジレンマ 技術革新が巨大企業を滅ぼすとき』
クレイトン・クリステンセン (著)
(読書日記風と言いつつ初っ端からチョイスが渋い…!?)
革新的な技術が世の中に登場した際、これまで圧倒的勢力を誇っていた有力企業があっさりと新規参入企業に倒される、ということがよくあります。
そのような企業の失態は、「自らの能力にうぬぼれていたからだ」とか、「技術進化のスピードについていけなかったからだ」など、とかく有力企業の経営能力不足に帰せられることが多かった。
そんな企業に対して、
と声をかけるのがこの本です。
クリステンセン教授はイノベーション理論の確立者として超有名人ですね。
経営コンサルティング会社のBCG出身だったりして、どちらかというと実務あがりの印象があります。
過去に起こった様々な企業交代劇を系統的に分析していく様は、さながら目から滂沱のウロコという感じです。
この本が画期的だったのは、イノベーション*を以下の二つに区別したことです。
(*本書の中では主に技術革新と同義で使われています。最近は、システムの革新とか組織の革新もイノベーションに含まれるという人もいるようです。)
➀ 持続的イノベーション
既存の性能評価軸、既存の顧客ニーズに向けて行われる技術革新
② 破壊的イノベーション
既存の評価軸とは異なる性能をもち、顧客となる対象も未知数な技術革新
この区別が一体何なのかを理解するために、本の中でも取り上げられているショベルカーの例を見てみます。(知ってる!って方はしばらく飛ばしてくだされ。)
土砂の掘削に用いられるショベルカーですが、最初期のショベルカーの動力は蒸気でした。その後、80年以上続いた蒸気時代の末に、ガソリンエンジンが現れます。これが最初の技術革新です。
ガソリンエンジンの導入は確かに抜本的な技術革新でしたが、それによって向上する性能は従来の価値観(掘削の速さやコストなど)に沿うものであり、したがってこれは持続的なイノベーションに分類されます。
そして、多くの有力企業は、持続的なイノベーションであれば何ら問題なく対応できることが示されます。
一方、次に到来した技術革新は、ケーブルでアームを操作するケーブル駆動システムに代わる、油圧駆動システムの誕生でした。今では当然となっている油圧駆動システムですが、実は当時、重要な性能指標に関して油圧駆動システムは圧倒的に劣っていました。
当然のことながら既存顧客は、油圧式駆動システムに見向きもしません。
既存の優良メーカーにとっては、ケーブル駆動システムを使い続けることが、顧客ニーズを満たすための唯一かつ当然の選択となるのです。
このような一見注目するところの無い技術革新が、破壊的イノベーションに分類されます。
ではその後何が起こったか。有力企業たちが油圧駆動システムの導入を渋っている間に、新規参入企業が技術改良を重ねた結果、ついには既存の有力メーカーの庭を猛烈に荒らし始めたのです。
かつての有力企業のほとんどが、新規参入企業の攻撃に敗退し、撤退せざるを得なくなりました。
こうした技術革新の悩ましいところは、次の点に集約されます。
つまり、ある企業をそれまで成功に導いてきた能力が、次の局面においては企業を敗北へと引きずっていく無能力の決定的要因となってしまうところです。
企業は既存顧客のニーズを満たそうとして、あるいは自社の売り上げを上げようとして、その時点では当然と思えるありとあらゆる経営判断を重ねた、まさにその正しい判断のために、破壊的技術革新を自社に取り入れられず、結果打ち倒されることになる。この本の反響が大きかったのは、こうした不可避的な運命を予言したところにあるのでしょう。
本書ではこうした事例の検証に続いて、企業が破壊的イノベーションに対応する手段を論じていきますが、そこでの提案は今日あらゆるところで採用されているように見えます。本書の影響力が覗えます。
ところで、現在は猫も杓子もイノベーションイノベーションと叫びたてる世の中になりましたが、本来イノベーションという言葉には、上記のような具体的な現象を表す概念のはずです。ところが、巷でイノベーションという言葉が使われる際に、どうも言葉の背景にあるこうした文脈が希薄に感じられることが個人的にあります。
これはイノベーションという単語が拡大解釈されすぎている事が一つの原因だと思いますが、そのような抜け殻みたいな使われ方をしているうちに、単語にやや空虚な響きが伴うようになっていると感じるところです。
多くの国民にしっくりくる共通のスローガンがあると、案外世の中は動き出すという話をどこかで聞いた覚えがあるのですが、なにか日本人にとってもっと腑に落ちる単語は無いものかなと思ったりします。
閑話休題、クレイトンさんの業績の本質を、技術革新を持続的/漸進的なものと、破壊的/根本的なものへと分解した点にざっくりと見るとすれば、似たような分解を科学論の分野で行った人がいます。
そこで登場するのが、今回取り上げる2冊目です。
『科学革命の構造』
トーマス・クーン (著)
(だからチョイスが渋い!)
科学史・科学哲学の分野の大御所、トーマス・クーンの登場です。
クーンさんはもともと物理学研究者の出身なので、強引に言うなればこの人も「実務」あがりの科学論研究者です。
科学を学ぶ学生は数多くいる中で、科学の発展の歴史を学ぶ機会というのはあまり多くありません。
せいぜいのところ、参考書の前書きだとか、コラム部分だとかでちらちらと知るくらいでしょうか。
そうした文章を読んでいると、科学とは過去の偉大な先人たちが一歩一歩着実に真理へと近づいてきた、その集大成であるという強い印象を覚えます。
そうした素朴で直線的な科学観を、
と言わんばかりに一蹴するのがこの本です。
クーンに見つかったらグーで3回殴られそうな雑な要約ですが、まあ大体こんな感じで、本文の大半は科学の発展がいかに非連続的な革命を経験してきたかの説明に費やされます。 これがなかなか衝撃的です。
長い間教科書のイントロでしか科学史に触れたことが無かった僕にとって、かなり印象的だった箇所があるので、ちょっと長いですが、引用すると、
科学の著述の一般的な非歴史的空気や、時には上に論じたような意図的な誤てる再構成と結びつく時、次のような強い印象を与えることになる。つまり、科学は一連の個人的発明や発見によって現状にまで達したのであり、それらの個々の発明や発見を寄せ集めると、近代的な専門的知識の体系を構成する、というものである。科学の仕事のはじめから、科学者たちは今日のパラダイムの中に具現化されるよう特定の目標に向かって歩み続けてきた、という意味合いが教科書の表現にこめられている。…(中略)…しかし、それが科学の発展する道ではない。今日の通常科学のパズルの多くは、最近の科学革命までは存在すらしなかった。科学の歴史的起源まで遡れるような問題はほとんどない。昔の人たちは、自分たちの問題を自分たちの装置と解答基準で追求していた。変わったのは問題だけではない。教科書のパラダイムが自然と合わせている事実や、理論の全体系までも変わったのである。
所々でてきたキーワードについては後述します。
さらに、
このように論じてくると、成熟した科学者集団のメンバーは、オーウェルの『一九八四年』の典型的な登場人物のように、権力によって書きかえられた歴史の犠牲者のようになる。こういう言い方は、全くの不適切だとは言えない。
とまで言い切ります。
じゃあ一体、科学はどのように発展してきたって言うんだい。
クーンの主張を理解するのに重要なキーワードとして、「パラダイム」という概念があります。
『科学革命の構造』の冒頭では、パラダイムとは以下の二つの性格を兼ねそろえる業績であると定義されています**。
i) 熱心な支持グループを集めるユニークさ
ii) それを中心として再構成された研究グループに解決すべきあらゆる種類の問題を提示すること
(**もっとも、後々この本が批評にさらされる中で、「きちんと分析すると、パラダイムって言葉が少なくとも22通りもの使い方で用いられているYO!」とツッコミが入ったりしたようで、本書の時点で正確な定義は完成していないのかもしれませんが。)
パラダイムシフトとかってたまに言いますよね。あの言葉の元ネタも、クーンが提唱した概念らしいです。
そして、このパラダイムという概念をもとに、科学の発展を以下の二つのプロセスに分解します。
➀ 通常科学
② 危機によって引き起こされる異常科学と科学革命
簡単に言うと、
ある一貫したパラダイムのもとでなされるのが「通常科学」。
パラダイムが根本から不安定になるのが「異常科学」の期間で、
最終的にパラダイムの交代が起こったならば、それを「科学革命」と呼びます。
ここでは具体的に、有名なコペルニクスの地動説を例にとって紹介してみましょう。
コペルニクス以前の宇宙観は、天動説、すなわちプトレマイオスの体系でした。天動説は今でこそ事実に基づかない、ともすれば人間本位の盲目的考え方だ、みたいに論じられがちです。
しかし、実際の天動説は、恒星や惑星の位置の変化の予測を実に見事にやってのけた理論であり、古代の体系としてはこれ以上のものは無かったんですね。よくよく考えてみれば、
こういう宇宙観よりは、断然科学的な予測が出来そうだ、というのは容易に想像がつきます。したがって、昔の天文学者たちの仕事は、このプトレマイオスの考え方のもとに、理論と観測を近づける作業を行う事でした。当時の科学者は、この考え方を信じるありとあらゆる正当な根拠を持っていたのです。
そして、これがいわゆる通常科学です。
クーンによれば通常科学とは、その根本にあるパラダイムによって与えられる種々の問題を解く、パラダイムの整備の期間であり、そこで科学者が行うのは一種の”パズル解き”なのです。
そのパズル解きにおいては通常、科学者は自然現象の「極めて専門的な深みへと踏み込んで」行き、「その最終生産物は全ての人々に受け入れられるべきものではあるが、大部分の人にはうんざりされて敬遠されるものとなる」とか。
いやまさしく、と笑いそうになりますが、こうした極度の専門化、悪く言えばタコツボ化は、通常科学を効率的に進展させるうえで本質的な役割を果たしていると捉えるのがこの本の面白いところでもあります。
それはさておき、やがてプトレマイオスの天動説に基づいた理論の整備は、どんどん複雑なものとなり、あちらを立てればこちらが立たず、コペルニクスをして「ついに化物を生み出した」と言わしめるような事態に至ります。徐々に、それまでのパラダイムであったプトレマイオスの体系への疑念が生まれ、科学は危機的状態に陥ります。
そうした状況において、科学者たちは分裂し、パラダイムが何であるかについての意見の一致もみなくなり、今まで解けた問題に解答することすらままならなくなるといいます。まさに危機的状態だと言えます。
激動のさなか、いくつかのパラダイム候補の中で最終的に一つが選ばれるわけですが、この決着のプロセスは必ずしも科学的な議論のもとに行われるわけではない、というのが一つのキモです。そもそも何が科学的であるかについて意見の一致がないような状態なので、異なるパラダイムを評価する共通の基準が存在しない。
そこで、よりソフトで人間的な「説得」の技術が関係してきます。クーンは、革命の決着の基準として、危機を誘った問題を無事解決できること、古いパラダイムでは思いもよらなかった現象を予測できることといった、どちらかと言うと論理的な基準から、個人の信仰や美的感覚といった、より個人的な基準にまで言及しています。
天文学の場合は、周知のとおりコペルニクスの地動説が新たなパラダイムとなったわけですが、実は惑星の位置の予測精度では、プトレマイオスの体系と大差なかったようです。しかし天動説から導かれる天体表のすべてよりも、ケプラーのルドルフ表のほうが定量的に優れていたことが、パラダイム交代の主な要因になりました。
また、このように書くと科学の発展は随分と気まぐれなものにも思えてきますが、クーン自身は、そうした不確定要素を多く含む科学革命においてもなお、科学を良い方向へ前進させる科学者たちの価値観に大きな信頼を置いていることも本から読み取れます。
通常科学と科学革命の構造は、例えば「ニュートンやアインシュタインのような英雄たちと、現実の科学者たちの仕事の間に大きな乖離があるように見えるのはなぜか」という素朴な疑問への一つの解答になりそうです。ニュートンらは計り知れない天才であった事に加えて、科学革命の時代の目撃者なのです。一方、現在の多くの科学者たちの仕事は、その後の通常科学に相当します。
他にもいろいろ言えることはありそうですが、長くなりすぎたのでこの辺りで撤収します。
…というわけで以上、イノベーションと科学の両分野での、発展の構造を見てきました!
既存の規範や価値体系を保った漸進的進歩と、価値観の破壊を伴う革命的進歩、といった具合にまとめると、両者の類似点が一層感じられます。
もちろん、判断の主な基準がイノベーションでは「売れるか」、科学では「より多くの現象を説明できるか」なので全然違いますし、科学者は極めて一様なパラダイムを共有した集団であるという特殊性もあり、革命のタイムスケールも違いますが、しかしどちらも人間のやること、発展の構造に類似するものがあってもおかしくないのかもしれません。
それでは最後に、『科学革命の構造』から、イノベーター的精神も漂う力強い一文を引っ張ってきて終わりにしたいと思います。最後までお付き合いいただきありがとうございました!
新しいパラダイムを、その初期に抱懐する人は、パズル解きのための証拠を無視して進まなければならないことが多い。つまり、古いパラダイムで解けないものはごくわずかであることを知っていながら、新しいパラダイムが直面する多くの問題を解く上で、いずれ成功するであろうという信念を持たなければならない。その種の決断は、ただ信念によるのである。