自律的ことばの逆襲
先日、頭木弘樹著『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』を読んでいて、「言語隠蔽」という言葉に出会い、これが気になったので少し書きとめたいと思います。
まず、カフカが日記の中でそれについて示唆した部分を以下に孫引きします。
このところ、ぼくは自分についてあまり書きとめていない。
多くのことを書かずにきた。
それは怠惰のせいでもある。
しかしまた、心配のためでもある。
自己認識を損ないはしないかという心配だ。
(中略)
書かれたものは、その自律性によって、
また、かたちとなったものの圧倒的な力によって、
ただのありふれた感情に取って代わってしまう。
そのさい、本当の感情は消え失せ、
書かれたものが無価値だとわかっても、すでに手遅れなのだ。
カフカは書かれたものには「自律性」があり、その「圧倒的な力」によって自身の「本当の感情は消え失せ」てしまうと書いており、上記の本の著者である頭木さんはこれと言語隠蔽という概念を結び付けます。
人は物事を言語で記述することで、その理解を深めることができる、というのが一般的な感覚ではないでしょうか。しかし、関連する論文のタイトルに "Some Things Are Better Left Unsaid" とあるように、言葉にすることで失われてしまうものがある、というのが「言語隠蔽(Verbal Overshadowing)」という概念の主張するところです。
このブログの目的の一つはまさに自身の考えや認識を言語化することにあるのですが、カフカにそう言われると、果たしてその試みは正しかったのかという話になります。何かを得るために書く文章を通して、むしろ自分は失っているのではないか?
言語隠蔽に関する科学的な実験の一つを紹介しましょう。そこでは被験者はある人物の顔に関するビデオを見せられます。その後実験群の人々は、記憶した容貌を言葉で叙述するように求められます。すると、言葉による記述をしなかった対照群と比較し、実験群はビデオの記憶テストにおいて点数が低くなったということです。
また、同様の例はさらに多岐に渡るようです。再び本からの受け売りになりますが、例えば恋人のどこが好きなのかを言葉で説明すると、半年後に分かれる可能性が非常に高くなったり、またゴルファーに自分のショットについて言葉で説明してもらうと、その後の成績がガタ落ちになるなどの現象が確認されているようです。
これはどういう事なのでしょう。僕は心理学の専門家ではないので、wikipediaで聞きかじった知識しか持ちえないのですが、どうやら万人の了承を得るような結論は出ていないようです。現在の仮説としては、
・言語化することで記憶自体が変質してしまうというRecoding interference hypothesis
・言語化によって記憶の処理系が不適切なものにスイッチするというTransfer inaapropriate retrieval hypothesis
などあるようです。
カフカのように言葉の自律性が自身に影響を及ぼすと考えるならば、前者の立場に立つことになりそうですが、いずれにしても、言語を使用することそれ自体によって、私たちの脳や認識は影響を受けてしまうということです。
まさにエッシャーの「描く手」のような構造です。私たちは描くその瞬間に、逆に描かれ返されているのです。
メディア論で有名なマクルーハンの思想についての言葉の中にも、このような相互性をよく表しているものがあります。
最初に私たちは道具を作る。次に、道具が私たちを形づくる。
「道具」を「文章」に変換すれば、言語隠蔽と似たような状況になります。さらに一般的に「言語」とすれば、使用言語が認知や思考に影響するという「言語的相対論」に至ります。
ニーチェの深淵うんぬんの言葉に通じるものもあるでしょう。多分(適当)。
つまり、言語隠蔽という現象は、「私たちが作り出したツール・プラットフォームは、それ自身の自律性によって、私たちを逆に作り変え始める」というより一般的な文脈からも捉えられるような印象を持ちます。
すると、その上で「非言語的な把握と言語的な(つまり言語の影響を受けた)把握はどちらが優れているか」という問いを考えることにどれだけの意味があるのか疑わしく思えてきます。性質の変化は必ずしも一次元的な優劣に並べられるものではないですし、言語的な把握が必要とされる場面も数多くあるでしょう。
あくまでそういった面を念頭に置いて記述すべきところは記述し、同時に言語化しない領域も確保する。両者のハイブリッド的方法の中に、現実的な処方箋が存在するというのが直感的な印象です。
どうやら物を書くというのは思ったよりも単純なことではないようです。
もっとも一番大事なのは、カフカみたいな絶望名人の言葉をあまり真に受けないことかもしれないけれど。