すだまの足跡

技術と社会を考えたい理系大学院生が残したいつかの足跡。

これは感想ではない

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ディスカバリー号はいまや、すらりと長い巨大なアレイとなり、前方の宇宙空間を覆いつくしていた。船体は光に照らせれて白く輝き、周囲に見える漆黒の闇と、現実味の無いコントラストを描いている。

ゆっくりと回転する船体の軸部分を目指し、ロープを伸ばす。たぐりよせたロープを脇にしめ、船体に体を固定させる。

「うまく入れるといいが」

エアロックの手動コントロールをいじくっている間、永久のような時間が流れたように思えたが、次の瞬間、何の前触れもなく扉が開き、内部の空間がぽっかり口をあけた。大きく息を吸い込んで、足から体を滑り込ませる。

我々は今、眠れる巨人を起こそうとしているのだ。私はそう自分に言い聞かせた。これだけの歳月、孤独に宇宙空間を漂っていた無人船は、突如帰ってきた我々を見てどんな反応を示すだろうか?

両手を操作デッキの上で踊らせ、メインシステムを再起動する。久しぶりの開放を喜ぶかのように、画面上では色とりどりのグラフィクスが一斉に出現しては跳ね回る。

私はスクリーンの上を手で払い、過去ログを表示させる。

最終行に残っている日付は、2018年9月20日ーーー。

 

 

 

・・・このブログの最終更新日だ。

というわけで、茶番はこんな所として、長らく更新を怠っておりましたブログを、これからゆるゆると再開します!

 

さっそくですが、先日、円盤に乗る派という演劇プロジェクトの新作公演『清潔でとても明るい場所を』を観劇してきました。これがなかなかに衝撃的だったので、今回はそれについて書こうかと思います。

 

ただ、きちんとした説明を行うのは自分の手にあまり、とは言え「マジ卍でした、まる。」の一言で済ますのもあれなので、ここではごくごく一面的かつ個人的な感想を述べたいと思います。

 

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さて、「演劇」と聞いて、皆さんは何を想像されるでしょう。

例えば劇団四季のように、感情を豊かに表現する役者たちが舞台上で、架空のストーリーを演じる。例えば主人公は、不遇な環境に置かれた田舎の少年だったり、都会で暮らす平凡なサラリーマンだったりで、彼らは時に大きな苦難に見舞われるけれど、周りの人々の支えを通じて困難を乗り越える。その過程を通じて、観客は心を動かされ、新しい教訓や新たな挑戦を行う契機を持ち帰ったりする。

 

そんな一連のプロセスは、「演劇」という日常的な単語にしっくりきます。

 

ところが円盤に乗る派の演劇は、そういったイメージとは恐ろしいほどにかけ離れていました。何って、まず、役者さんに生気が感じられない。演技に入った瞬間、魂がどこかへ遊離してしまったかのように、目は座り、視線は無表情に前方斜め下を注がれる。役者の身体はひどくゆらゆらと揺らいでいるし、身振りもどこかぎこちなく今にも倒れそう。彼らから発せられる台詞は、一切の感情を失った独白のような、抑揚のない音響として場をふらふらと通り抜ける(ちなみに素に戻った役者さんはとても気さくで、演劇に対してアツい思いを持った良い人たちでした、念のため笑)。

 

物語の進行も、観客を半ば置き去りにしながら突拍子もない方角へ進み続けます。

我々観客は次々と奇妙なターンを決める焦点の定まらない物語に乗せられ、脳髄にかかる演劇論的Gを感じて思わず目をつぶりながら、困惑と快感を程よくブレンドした感情を胸に抱きしめ、薄目で今自分の向かっている先を垣間見るしかない。

 

と、そんな複雑怪奇な演劇だったわけですが、実はこうした演出は極めて日常的な観点から、つまり「日常」そのものを表すものとして、行われているようなのです。

 

だから、劇中の主な舞台は浜松市で、コメダ珈琲佐鳴台店だったりします。 

これはどこか奇妙で異質な世界の話ではなく、我々の世界を通常と異なった視点で表現しようとしている。 

 

そう解釈する中で手掛かりとなるのは、終演後の座談会で一つのキーワードとなった「弱い身体の実践」というところにありそうです。  

 

すなわち、日常の中には「強い身体」では見過ごされてしまうものがある。あえて「弱く」在る事で、それらを表現する事ができる、という事だったと記憶しています。なるほど。だからこそ、あの不気味とも捉えられかねない演技が表出する、という事なんですねー。 

 

ところで、このような視点で人間の特性を表現する際に、演劇は非常に難易度の高く、けれどその分圧倒的な迫力を持って訴えかけてくる表現手法なのではないかと思うんです。

 

例えば小説であれば、架空の登場人物をして、どれだけ奇妙に見える行動でも行わしめることができるでしょう。それは著者の特権です。逆に言えば、その物語はあくまで「フィクション」なのだという読者の内の暗黙の了解を打開する事は難しい。

 

また彫刻であれば、個人的にジャコメッティのほっっそい人間の彫刻を例に挙げたいのですが、あれだって人間の本質の一つの表現だと考えられるでしょう。でも、そうした彫刻は人間を表現する「モノ」であって、やはり「ヒト」そのものではない。だから、私たちはジャコメッティの作品を見ても、大きな衝撃を感じることなく受け流す事が、一応のところ可能です。

 

一方で、演劇というのは役者という「ヒト」そのものが表現自体、表現そのものとなります。その圧倒的な身体性を前にして、私たちはその表現の迫力から逃れることができない、どこにも逃げ道が存在しない。そんな感覚を、観劇中に覚えました。

 

だって、自分と同じ普通の人が、突然異質にも見える存在へと変わってしまうんですよ。それが表現するものは、否が応でも受け取らざるを得ません。

 

全くの演劇初心者だった僕ですが、少し演劇というジャンルに興味を持った。

そんな休日でした。