【本の新結合 #2】『血みどろ臓物ハイスクール』×『サークルクラッシャー亜紀』
畑違いの2冊の本に共通点を見出し、まとめて紹介していこうという「本の新結合」コーナーです。
前回はあまりにも真面目な長文記事になってしまったので、今回はそれを中和するかの如く、180度異なる方角へ思いっきり舵を切ってみたいと思います(下ネタ来るぞ、気をつけろ!)。
なお、紹介する本の組み合わせはあくまで筆者の独断と偏見によるものですので、その点ご了承ください。
というわけでさっそくですが、紹介する一冊目がこちら。
『血みどろ臓物ハイスクール』
キャシー・アッカ― (著)
何そのタイトル。
と思う方も多いでしょう。
もしかしてあれか?
謎の存在から突如殺し合いを命じられた高校生たちが、校内で狡猾な策略を巡らせながら、血で血を洗う生存劇を繰り広げる、バトルロワイヤル的作品なのか?
と思いきや、違います。
その正体は、性的なタブーの一切をガン無視し、男と女の、ひいては男性器と女性器の神秘へと果敢にも切り込んでいく、エログロナンセンスの風情をまとった高度な実験小説です。
文学界の熱海秘宝館といっても過言ではない。
(!注意!)本作品は、他人の目のあるところで絶対に開いてはいけません。
なぜかというと、あからさまに卑猥な本文、はともかくとして、妙に写実みのある陰部のスケッチがそこかしこに挿入されているからです。
人は言うかもしれません。
「例えちょっと卑猥なところがあろうと、これはあくまで文学作品なのだ。芸術家が裸婦のデッサンに高尚な美を認めるのと同様である。いったい何を恥じることがあろうか」と。
それはもっともです。
一つまずいところがあるとすれば、それは世の中の人は大抵、論理で動かないというところです。
ゆえに、例えばもしぼくが本書を電車内で読んでいるのを他人に覗き見られでもすれば、新幹線内でポルノサイトを見ているおっさんと同じく、変態の烙印を押されてしまうことでしょう。
本を読むという行為は、常に危険やリスクと隣り合わせに生きることを意味するのである。
本書は、そのような読書の本質的側面を私たちに気付かせてくれます。
そういったデンジャラスな読書空間へ足を踏み入れてみたい、という方は是非とも一度手に取っていただくとよいのではないでしょうか。
さて、あまりにも強烈なキャシー・アッカ―の作品。
こんなにも無機質な性を全面的に押し出してくる小説家なんて他にそうそうないでしょう。
ましてや日本になど、、、
いました。
いや失礼、いらっしゃいました。
それが今回紹介する2冊目。
『サークルクラッシャー麻紀』
佐川 恭一 (著)
表紙からさっそく「童貞を殺すセーター」がお出迎えです。
こちらは短編集ですが、 サークルクラッシャー麻紀は表題作の主人公(?)の名前でもあります。
文中では一貫して「サークルクラッシャー亜紀」と表記されているので、たぶん「サークルクラッシャー」が苗字なんでしょうね。表札を作るのが大変そうです。
趣味は読書とサークルクラッシュ。得意技はだいしゅきホールド。
あらすじとしては、どこか冴えない人物が集まる京都大学の文芸サークル『ともしび』に足を踏み入れたサークルクラッシャー亜紀が、その性的魅力をデーモン・コアの如く周囲に発揮し、サークルを壊滅に追い込んでいく。
というただそれだけなのですが、これが破壊的に面白い。
文章からにじみ出るユーモアはもはや天才の所業です。
若者に独特なヒエラルキー。
クラスの中心に君臨するパーリーピーポーを遠目に、片隅へと押しやられる冴えない人間の、あの何とも言えない距離感・格差感を拗らせた、鍋の底にこびりついた焦げ付きのような感情を話のテコにしながら、魅惑的な女性を前にした男の浅はかさを克明に描き出すその筆致は、他者を寄せ付けない(誰も寄り付こうとしないだけかもしれない)無類の小説として独自の魅力を放っています。
ちなみに著者の佐川恭一さんは6日前に「第2回徳島新聞 阿波しらさぎ文学賞」を受賞されています。おめでとうございます。
https://www.topics.or.jp/articles/-/244673
また、今月の初めに長編『受賞第一作』が発売されています。「あの樋口恭介が咽び泣き、大滝瓶太や町屋良平が呆れかえったという伝説の作品」だそうです。
咽び泣くのがこういう作品に対する正しい反応なのかちょっと分かりませんが、すごい作品みたいです。ちなみに、かげやまはまだ読んでません。
というわけで以上、鉛直下方に向かってハイレベルな2冊を紹介してきました。
それにしても、この直球の下ネタと文学が結び付いた時に生まれる、一種の魅力は何なんでしょうね。
『利己的な遺伝子』を物したリチャード・ドーキンス曰く、私たちの体というのは、遺伝子が自己と同種の構造を守り、複製するために作り上げたvehicleに過ぎません。
だとすれば、オスとメスで構成される自己複製システムは、生命の開闢まで遡るその壮大な試行錯誤の、偉大な傑作なのだと言えるでしょう。
そういう視点で眺めたとき、性に関するあからさまな言及を避けようとする我々は、その偉大な作品を無意識のうちに貶めているのかもしれません。
ならば、かじった禁断の果実など吐き出してしまえばいい。
「神が人間を創造した」と主張するならば、神は我々の頭上にあらず、我々の下方に存在するのです。
そのような点を鮮明に描き出す小説作品にあたることは、我々が生命の本質を理解するために、必ずしや有力な足掛かりを与えてくれることでしょう。
今回紹介した2冊を皮切りとして、このブログの読者の皆さんが、この壮大で神秘的な生命の本質を探究する長い長い旅路へと、豊かな一歩を踏み出していけることを、筆者としても心から願ってやみません。
(このブログは一体どこへ向かっているんだ・・・)