音楽のハナシ 渋さ知らズ「Naadam」
たまに聞く曲に、渋さ知らズという音楽集団のNaadamという曲があります。
渋さ知らズはジャズを中心とした音楽を演奏する、メンバーが百名を超える超大規模なビッグバンドです。
金管、弦楽器、打楽器、ピアノから果てはテルミンまで演奏する楽器隊に加え、ド派手な舞台芸術や演出、謎の舞踊団も加わり、カオスとの表現がこの世で最もしっくりくる集団かもしれません。
そんな彼らの曲の中でもひときわ面白いのがNaadamです。
一聴していただければ分かるのですが、開始の旋律が流れた直後、しばらくメロディが消失します。
全員が全員、これがCDのレコーディングである事をきれいさっぱり忘れたかのように、一切の秩序をなくし、何十もの金管楽器・打楽器が勝手気ままに演奏し散らす。一瞬でもかすかな音階が意味ありげに立ち上がったかと思えば、次の瞬間には無意味な音の洪水に飲み込まれて消えていく。
ただの騒々しい不快雑音になりかけたその時、場にわずかな静寂が訪れ、次の刹那、悪い夢からハッと目を覚ますように、どこからともなく突然メロディが息を吹き返す。裏打ちの蒸気機関車が白い煙をボーっとあげ、周りの一切合切を有無を言わさぬ音圧で巻き込んではどんどん前へと引きずっていく。そこから先はもう逃れられない。
カオス状態から一転して秩序が立ち上がるこの瞬間が、この曲の個人的なハイライトです。
直前の混沌としたバックグラウンドを残しつつ、その後の演奏では一つの紛れもない音楽がはっきりと立ち上がります。
渋さ知らズの面白さの今一つは、演奏するごとに曲調が微妙に変わる、という点にあります。
例えば、
と
は同じ曲なのですが、曲のテンポから途中のソロパート、打楽器パートまで雰囲気が一切違います。質的には全く異なるにも関わらず、同じ曲としてのアイデンティティを保っている様子はとても面白い。
原子レベルでは日々入れ替わっているにも関わらず、単一の自我を保ち続ける私たちを連想させるようでもあります。
曲調が大きく変わるのは、再集録として意図的にやっている部分もあるのでしょうが、おそらくバンドメンバーそれぞれが好きに演奏したその結果として、たまたま出現した音楽だから、という理由も大きいのでしょう。このバンドにはリーダーはいるものの、厳格に全体を指揮する統率者ではないため、「一期一会」的な音楽になりやすいのかと思います。
つまり、演奏がオーケストラのような中央集権的なものではなく、自律分散的なものに近いのです。
先ほど話したNaadamにおける無秩序→秩序の対比は、こうした分散的な音楽が成立する事の非蓋然性を明確化する動きとしても見ることができそうです。
ところで、こうした構造というのは他の分野でも散見できます。
分子レベルの整形をする際に、自己組織化という自発的な秩序形成の現象を利用する事があります。
ブロックチェーン技術は、中央管理主体を必要としない自律的な通貨制度を実現することに成功しました。
ドラマ「Silicon Valley」において主人公リチャードは、全てのユーザーの端末をリソースとして稼働する未来の分散型インターネットを考案しました。
同じような分散的なプロセスを、音楽に適用したらどうなるのか。
そこにちょっと興味があります。渋さ知らズの音楽はそこに限りなく近い予感がします。
しかしもっともっともっと大規模に行ったらどうなるのか。
もはや楽器の演奏者の枠を越えた、膨大な人々の奇跡的相互作用の結果としての音楽を考えてみましょう。
その時、朝の目覚ましのアラームは、夜明けのカラスの鳴き声は、電子レンジのチーンは、家族が食卓で交わす話し声は、路上を行くサラリーマンたちの靴音は、日に照らされた鳥たちのさえずりは、コンビニの入店音は、パソコンのキーボードを叩く音は、電車の発車メロディは、サンドウィッチの包装を開く時の音は、こっそり隠れたあくびから漏れる息は、エアコンの作動音は、乾杯のグラスたちの鳴り響きは、テレビに映る芸人の鋭いツッコミは、隣人が練習するピアノの音色は、通りすがりの黒猫の嬌声は、草むらに隠れるコオロギの歌声は、遠くで上がる花火の炸裂音は、愛しい人のたてる安らかな寝息は、
あるいは認識すらできない時間軸の微小区間において、
まるで互いに同期して点滅する視界一面の蛍のように、
誰も意図しない音楽を奏でることになるでしょう。
そんな音を、聞いてみたいと思う。っていう妄想をしたりします。