すだまの足跡

技術と社会を考えたい理系大学院生が残したいつかの足跡。

ブログタイトルについて

半ば直感的に決めたブログのタイトルですが、その由来についてちょっと書いてみます。

 

「魑魅の足跡」。魑魅(すだま)と読みます(追記: やっぱり読みにくいので「すだまの足跡」に変えました)。魑魅魍魎という言葉がありますが、魑魅(すだま・ちみ)は「山の怪物」、魍魎(もうりょう・みずは)は「川の怪物」を意味し、中国や日本の古代の文献に登場するようです。wikipediaで見つけた図を以下に貼ります。

 

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『百鬼夜講化物語』より、向かって右が魑魅、左が魍魎とのこと。

 

って、ええ、こんな見た目してたのか。自分で驚く。山の中でこんなのとばったり出会ったらその場でショック死しそうで、ブログのタイトル中に鎮座させるにはちょっとグロテスクすぎやしないかと今更不安になってきました。一見分かりずらいですが、魑魅に寄り掛かる魍魎の姿も確認できます。うんやっぱり気持ち悪い。

 

なぜこんなイカツイ化け物をタイトルとしてしまったのかというと、これはジョージ・R・R・マーティンのSF短編、「夜明けとともに霧は沈み」に思い浮かべていたからです。

 

その舞台は〈魑魅の栖〉(すだまのすみか)と呼ばれる星で、常に星を覆う霧の海の下に幻想的な自然を隠しています。この霧の中に魑魅と呼ばれる怪物が生息しているという伝説が星には存在し、旅行客は自分がその伝説の一部となることを夢見て星を訪れるます。人々は霧の中へ冒険へ出かけますが、魑魅は複数の目撃証言から間接的に確認される存在に過ぎませんでした。

 

物語の登場人物は、魑魅に魅せられて星にホテルを建設し運営するサンダースと、魑魅を徹底的に解明しようとして星に上陸した科学者デュボウスキー、そしてその両者の間で中立的立場をとるジャーナリストの「わたし」の三人です。魑魅伝説を愛し、謎は謎のままにしておこうとするサンダースと、人々に真実を知らせ伝説や迷信から解放しようとするデュボウスキーとの間の対立を軸に話は進みます。

 

話の主題は「科学によるロマンの破壊」、「事実を事実として記述することの暴力」ということになりますが、それはちょっと脇へ置いておくとして、この話を大学1年か2年あたりで読んだ僕にとって魑魅は、断片的な情報から浮かび上がる未知の存在の象徴であり、僕が日頃頭にふと浮かんだ考えの痕跡をブログに書き残して、何とか構築したいと考えているものの恰好のメタファーのように思いました。

 

このブログは霧に覆われたようにボケっとしている自分の頭の中に時折発見される魑魅の痕跡を記しておき、というかむしろ自分から霧の中に探検に出かけ、自分流の魑魅伝説を作り上げるために運営されています。

 

なので「魑魅の足跡」です。というとやや内省的な感じになりますが、ブログなので他人が読んでも面白い文章を心がけていきたいと思ってます。どうぞよろしくお願いします(ペコリ)。

 

 

物忘れ

記憶力がない。

 

人の構成分子は一定周期で入れ替わるというが、それと一緒に記憶も捨て去られているのではないかと疑う勢いだ。「非使用のAppを取り除く」機能をオンにしたiPhoneに似て、奴はぼくが眼を放している隙に地図からLINEからどんどん削除していくから恐ろしく、ぼくの長期記憶の欠如もまた恐ろしい。そう設定した覚えはないが、我が脳は少し使わない知識があるだけで「こいつはいらない」と即断し、葬るようになったらしい。後で必要となって困り、小言の一つ言いたくなるが、自分の脳に文句を言ってもしようがない気もする。

 

インターネットに情報があふれるこの時代、「歩く辞書」タイプの賢さは影を薄め、忘却の価値を再評価する声もあったりするが、そうはいってもやはり、自身の中にある程度情報をため込んでいないとそれを調理することすらままならず、人間とインターネットはまだ直接接続されておらず、また過度な忘却は、自分の生きる時間幅を狭めることにもつながるし、なによりまず不便だ。本など読んでいても、頑張って読破した数か月後にほとんど内容が残っていなければ、何のために読んでいるのかと言われて首をひねるより他ない。失われていくものたちへの受け皿が欲しい。

 

そこで、文章を書く練習がてら日々考えたことを書き留めてバックアップとし、後からその軌跡を眺められるようにする目的でブログを作ってみた。書くことで、何か形になるものがあると思うのだが、はたしてどうか。