すだまの足跡

技術と社会を考えたい理系大学院生が残したいつかの足跡。

シミュレーション仮説、音楽と出会う

「pain of salvation be」の画像検索結果

Trying to understand the system of Life
Trying to understand myself
I created the world to be an image of myself, of my mind
Pain of Salvation「Be」冒頭より

 

ゲームクリエイターであるウィル・ライトが制作した「シムシティ」は1989年に発売されました。コンピュータ内に住んでいる「シム」たちの活動を、俯瞰視点からーー「神の視点」からーー見渡し、彼らを導いていくシミュレーションゲームです。

 

「私たちもシムに過ぎないとしたら?」

そう考えることはシミュレーション仮説と呼ばれます。私たちは何者か超越的存在のコンピュータ・ルームに置かれた、埃をかぶった計算機が見る、気まぐれな夢の中に生きているに過ぎないのではないか。あのイーロン・マスクも信じているらしいシミュレーション仮説は、その強烈なストーリー喚起性から、SFなどの分野で題材にされることが多いです。

 

このシミュレーション仮説を音楽の題材に取り入れた珍しいアルバムが、Pain of Salvationのアルバム「Be」です。これが個人的に超絶オススメCDアルバムなので、ちょっとここで紹介したいと思います。SF的なフレーバーが散りばめられた、「何者か」の対話から幕を開ける本作品。彼らは自身が何者であるのかを理解する衝動に突き動かされ、自身の鏡像と、それらが生きる世界を作り出します。

 

物語が始まるやいなや、淡々と読み上げられる世界の人口データをともに、不吉なスピード感をまとったギターソロがうねり、ここで一気に世界観に惹き込まれます。と思えば、次のImagoで舞台は一気に陽気な原始時代へ。自然への畏怖と好奇心が歌い上げられます。しばらくするとポツポツと雨が降り始め、どこかから遠くから雷鳴が響きます。一つ、また一つと置かれるピアノの音色から始まるPluvius Aestivusの美しい旋律に誘われ、気づけば私たちは霧がかった神秘的な森の中へ。

 

この冒頭の劇的な展開は本当に神がかっています。そして冒頭だけでなく、全ての曲の配置が無駄なくピタッと収まるべき位置に収まっている本当に稀有な音楽作品だと思います。そしてここぞという瞬間に用いられるリフレインの巧さときたら。初めて買って聴いたときは、CDプレイヤーの前でまるまる1時間、固まって動けなくなりました。

 

彼らがあまりpopularにならない理由はただ一つ、「作品の雰囲気が暗いから」だと思うのですが、しかし文学作品を比較にとれば、古典的名作の多くは悲劇的結末を迎えると相場は決まっています(例えば、ディズニー映画化された『ノートルダムの鐘』はハッピーエンドでしたが、ユゴーの原作では登場人物ほぼ全員が救いようもなく死にます)。それを考えれば、音楽であっても、周りと盛り上がれる洋楽Popだけでなく、こうした哲学的な作品があっても良いと思いませんか。気になった方はぜひぜひ聴いてみてほしいです。

データイズムと科学との距離

昨日の投稿で、中世ヨーロッパにおける機械的自然観の誕生を起点とし、ユヴァル・ノア・ハラリのデータイズム思想まで話を広げてみました。しかし、物理学に深いルーツを持つ機械的自然観とデータイズムを同じ土俵で比較するのは、深刻な誤りとなる可能性があるように思えてきたので、ここで両者の違いを考えてみます。

 

自分が理解する限りで、両者の大きな違いは「反証可能性」の有無です。ここではカール・ポパーの議論を参照するのが有益です。ポパーは有意味な科学的命題と無意味な形而上学的命題を峻別しようとする試みの中で、「反証」という概念を提起しました。そして、「反証可能性」を持つことこそ科学理論の最大の特徴だとしています。

 

例えば、占星術による未来予測は反証ができません。例え予言が外れても、それは人間の行いが神を怒らせたからだとか何とか、いくらでも正当化が可能だからです。一方で、例えば「化学反応の前後では質量は変化しない」という命題は反証することが原理的に可能です。実際に測ってみれば白黒がはっきりするからです。

 

こうした区分に基づけば、機械的自然観は、少なくとも検証が可能な単純な系を考える場合においては反証が可能です。そのような系の時間発展を追ってみて、理論と突き合せることができるからです。一方で、データイズム、つまり「宇宙とはデータの流れからできている」という思想は、反証ができないように見えます。この考え方からは、反証可能な設定を作り出すことができないのです。

 

その意味で、データイズムを科学的なルーツを持つ自然観と等置させることは不適切だと考えられます。あくまでデータイズムは哲学的思想であって、例えば従来の機械論的自然観を塗り替えるような位置づけにあるわけではない、という点は強調するべきでした。

コンピュータとしての人間、そしてDataism

コペルニクスに始まり、ニュートンによって完成される中世ヨーロッパの科学革命を経て、人間の自然観はアリストテレス以来の有機体的自然観から、機械的自然観へと大きく変容しました。機械的自然観の立場に立てば、あらゆる物質は古典力学的が記述する冷徹な因果関係に従って刻一刻と変化しており、世の中のあらゆる現象は、そういった機械仕掛けの舞台劇として理解されます。

 

実はこうした考え方の源流の一つに、中世に発明された機械時計の存在があったとする説があります。中世ヨーロッパでは宗教行事の作法が厳格に定められており、祈祷時間帯も正確に決められ、非常に規則正しい生活が送られていました。こうした生活様式にとって時計が不可欠な存在だったことは想像に難くありませんが、少し発想を飛躍させ、この状況が機械的自然観の下地を作ったとしても不自然ではありません。

 

このように考えると、ある時代に重要な役割を果たす技術が、その時代の人々の世界観に大きな影響を与えるのではないかという発想が生まれます。例えば、第一次産業革命後の人々は、生命のメカニズムを蒸気機関的に解釈していたかもしれません。「VRの父」と呼ばれるジャロン・ラニアーの『人間はガジェットではない』の中の記述によれば、アラン・チューリングがゲイ治療と称して女性ホルモンを大量に投与された背景には、性的な圧力を蒸気圧のメタファーから理解していた当時の人々の考え方があったと言います。

 

では翻って現在、私たちが世界や生命を理解するのに用いられているメタファーは何でしょうか。これはおそらくコンピュータです。人間の脳を機械的なコンピュータに例える発想は、おそらくコンピュータが誕生した時期から長らく続いてきたものですが、最近この思想は新たな局面を迎えているように思えます。その契機は言わずもがな、ビッグデータの活用や人工知能と言った技術の誕生でしょう。

 

AI悲観論者のニック・ボストロムは、『スーパーインテリジェンス 超絶AIと人類の命運』の中で、超知性が現れ得るシナリオの一つとして、強力なコンピュータを用いて脳を丸ごとシミュレーションするケースを挙げました。こうした発想は、明らかに有機的な脳活動はコンピュータ的な演算処理と等価であるという仮定をおいています。脳を構成する化学的な物質や、情報処理の物理的なメカニズムは抽象化の過程で捨て去ることができ、全ては論理的な演算過程として再現することができるとするのです。

 

こうした考え方の一つの極点を、Dataismというイデオロギーに見ることができます。これは世の中のあらゆる現象の本質を、「情報処理」に求めようとする考え方で、もともとはアメリカのコラムニストであるデイヴィッド ブルックスによって提起され、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』でさらに拡張されました。

 

ハラリによれば、「データイズムは、宇宙がデータの流れから成り立っていると主張する。そして、全ての現象の価値は、そのデータ処理能力によって決定され」ます。まさに、人間だけではなくこの宇宙全体を巨大なコンピュータとして捉えるような考えです。宇宙を「データの流れ」から解釈しようとするのは、世界をエントロピー増加へと向かう過程と捉える物理学の考えに近いような気もします。

 

『ホモ・デウス』においてハラリは、人間が機械よりも効率的にデータを処理できなくなれば、人間のこれまで保持してきた優位性は失われることになると論じます。こうした主張は人類に対する一種の警告のように響きます。しかし一方で、歴史上の例を思い出せば、世界の本質はデータ処理だとする考え方はいずれ、昔の人が世界を巨大な蒸気機関に喩えることと同じような、滑稽なものと判明するかもしれないな、とも感じます。しかしどちらにせよ、こうした現代的な世界の見方が生まれてくるのは、たまらなく面白いことだと思っています。

Apple Musicのラインナップ問題

私は基本的にApple Musicユーザーなのですが、最近どうも聴きたいアルバムが入っていなくて落胆することが多いです。例えば、自分のお気に入りのメタルバンド in Flamesで検索すると、中期の名作である「Sounds of a Playground Fading」だけが何故か無い。なぜだ!このアルバムの発表時だけ所属レーベルがCentury Media Recordだからか!

 

他にも最近気づいたのが、イングランドが誇るクサメタルバンド Dragon Forceのアルバムが極端に少ない。直近の3作しか入っていないじゃないか。クサメタルの歴史に永遠に刻まれるだろうThrough the Fire and Flamesすら聴けないとは、どうなってるんだまったく!あの引くほどにクソ長いギターソロを聴かないことには一日中モヤモヤして夜しか眠れないってのに!

 

なんて思う一方で、変なところで驚異的なラインナップを誇っていたりします。一番驚いたのは、昔ニュージーランドへ旅行に行った際に気まぐれで買った、現地のインディーバンドのアルバムが、きっちりと入っていたことです。YoutubeでのMV再生回数が5000回に満たない超絶マイナーバンドなんですが。ロングテールにもほどがあるよ!Dragon Forceは1億回再生だぞおい!

 

何が言いたいんだお前はと言われそうですが、ぼんやりと考えている事は、アルバムを買う習慣が廃れ、Apple Musicのようなサービスが音楽を聴く主要な手段と化していくと、サービス提供会社の一存によってアクセシブルな音楽空間が不自然に歪められてしまうのではないか、という事です。一言でいうと、Apple Musicよ、ちゃんと有名どころは抑えといてよ!ってことです(ごめんなさい、でもとっても便利です、これからも何卒宜しくお願い致します)。

機械学習とサイエンス

最近『ディープラーニングと物理学』とか、『物理学者、機械学習を使う』など、自然科学(特に物理学)とディープラーニングを関連付ける本を目にするようになりました。また、機械学習による創薬研究や材料開発などは、おそらく元から相性がよく、様々な企業が取り組んでいるようです。

 

ディープラーニング「を」研究するのではなくて、ディープラーニング「で」研究するとは、どういう事を意味するのでしょうか。自分の拙い理解によれば、現時点でのディープラーニング帰納的学習を行うものが主流であるはずです。つまり、機械学習モデルに大量の訓練データセットを食わせて、それらに内在するパターンを学習させ、未知のデータセットに対しても正確な出力を返すようなモデルを実現するものです。

 

こうした学習方法と、科学の発見の在り方を対比させてみるのは示唆的です。後者に関しても所説あるでしょうが、ここではアメリカの科学哲学者N. R. ハンソンの議論を引いてみます。ハンソンは『科学的発見のパターン』において、C. S. パースによるアブダクションという概念を参照しつつ、科学的発見のプロセスを以下のように定式化しました。

 

① ある予期していなかった現象Pが観測される

② もし仮説Hを真とすれば、その帰結がPとして説明される

③ ゆえに、Hを真として見る理由がある

 

ここで、①から②へ至る推論は、「後件肯定の誤謬」と呼ばれる誤謬推理の一つです。したがってこの推論は論理的に誤っているのですが、しかし科学の現場ではこうした仮説の組み立てを通して多くの発見がなされています(劇的な例としては、プランクの量子仮説とか)。

 

機械学習は膨大なデータから帰納的に法則を見つけ出すことはできますが、もう一歩進んでコンピュータに新しい概念や理論を発見することが可能かどうか、という点では議論が分かれるようです。個人的な雑感としては、ディープラーニングはシミュレーションの高速化とか、創薬における分子探索の効率化などでは非常に強力な効果を発揮しますが、理論や概念の発見に関してはまだまだ人間に舞台の座を譲るしかないのではないかと感じています。

 

参考文献:

野家啓一著(2015)『科学哲学への招待』筑摩書房

物理主義者の地平線

物理の大部分と化学の全体に関する数学的理論に必要な基本的物理法則は、このように完全にわかってしまったが、唯一の問題はこれらの法則を正確に適用しようとすると、非常に複雑な方程式となり、解く望みの無いものになってしまうことである。

ー P. A. M. Dirac (1929)

 

古典物理学の世界観では、自然界のあらゆる粒子はニュートン運動方程式に従います。この方程式が手にあれば、原理的には惑星の軌道を始めとして、あらゆる系の(例えば私とか)未来を予測する事が可能です。ところが、相互作用する粒子がある数に達すると、運動方程式を一般の場合で解析的に(ペンと紙で)解くことができなくなることが分かっています。その数はいくつでしょうか。100?1000?いえいえ、答えは3です。3つの相互作用する粒子を扱う問題は、三体問題という特別な名前がつくくらい難問です。一方で、私たちの体には一体いくつの原子が含まれているでしょうか。3つじゃないことは確かです。

 

化学は分子を扱います。分子の大きさは大体0.0000001 mmのオーダーで非常に小さく、こういう世界を物理的に記述するには量子力学を動員する必要があります。量子力学において運動方程式に対応するものが、シュレーディンガー方程式です。量子化学を習い始めると、遅かれ早かれ、水素原子に関してシュレーディンガー方程式を解く方法を学びます。ご存知の通り、この世で最も簡単な原子です。さあ水素はもう解けた、ではその次は?ところがどっこい、シュレーディンガー方程式を”厳密に”解ける原子はただ一つ、水素のみです。電子が1つ多いヘリウムになった瞬間、多電子系を扱う事となり、近似抜きで解くのは非常に難しくなります。もちろん、私たちがよく見る周期表の上では、水素に続いて色とりどりの住民がひしめいています。

 

この世の中は、(少なくとも現時点で検証可能な範囲では)厳密な物理法則に寸分たがいなく従っているように見えます。しかし、だからと言ってありとあらゆる事柄を、例えば人類の歴史とか、気になるあの子の心の内とかを、根本にある法則から厳密に記述して理解しようとしても、それは無茶だというものです。ある程度の近似と経験則を導入せざるを得ず、そのとき最適となる近似の粗さは、ひとえに問題の文脈に依存します。大切なのは、適切な語り口を選ぶことであって、厳密性にこだわることでは無いのです。例えば、人間とかが絡んでくると、より一層そうなります。結局のところ、私たちは物質である以前に、他ならぬ人間であるこという事実から、逃れることは叶わないのだから。

最後の大魔術師

最近読んだ本の中で、古典力学の始祖ニュートンが、かの大予言者ノストラダムスと一緒に紹介されていたので、気になって少し調べてみました。どうやらニュートンも一種の終末予測を物していたようです。彼の著した無名の文章によると、ニュートンは世界は2060年まで滅ばないと予言していたそうです。逆に言うと、2060年以降はいつ世界が大きく変容するか分からないわけで、終末予言の一種とも解釈できるものです。ニュートンがそんな予言をしていたとは。

 

一般的には中世ヨーロッパにおける科学革命を完成させた人物として、その科学的な偉業ばかり伝えられますが、実はそういった分野に負けじと劣らず、オカルト分野にもガッツリ没頭していたのが、このニュートンという人物なようです。彼の自然科学への貢献の象徴として語られる『プリンキピア』も、万有引力という遠隔力の存在を仮定していたため、当時の機械論哲学者からは、中世の魔術的伝統への回帰であると批判されたといいます。また、時間と空間を「神の感覚中枢」と呼んだり、『プリンキピア』執筆と同時に、錬金術や聖書の研究に没頭するなど、神秘主義的側面を多分に持ち合わせていました。

 

ニュートン錬金術関係の研究書類を購入したイギリスの大経済学者ケインズは、ニュートンを「最後の大魔術師」と評しました(ここでケインズの名前が出てくるのも面白いですね)。アリストテレスの自然観が支配していた中世ヨーロッパに突如現れた叡智の光、と思いきや、ニュートン自身はまだ12世紀のルネサンス以来の思想を引きずる「大魔術師」であったのが実際のところで、現在一般に知られている科学史ニュートンの活動をやや偏って伝えているのかもしれませんね。個人的には、むしろ実際の姿の方が人間臭くて好きです。